光州ビエンナーレ2010&釜山ビエンナーレ2010 後編
ゆるやかな関係性のなかにあいまいな輪郭を描く
文●石川健次(東京工芸大学准教授)
ゆるやかな関係性のなかにあいまいな輪郭を描く
文●石川健次(東京工芸大学准教授)
■釜山ビエンナーレへ
光州で一泊して翌早朝、高速バスを利用して釜山へ。ソウルに着いてからあいにくの雨が続いていたが、釜山市内に入るころにはすっかり晴れ上がり、絶好の行楽日和(?)となった。恒例の海岸沿いに広がる彫刻プロジェクトも、さぞかし見栄えするだろうと期待がふくらむ。
さっそく、メイン会場の釜山市立美術館へ向かった。館内に入ると、まずクロード・レヴェック(1953年/フランス)のインスタレーションが、高揚する心を迎えてくれる。しばしば音や光、霧などを駆使して五感のすべてを刺激するそのインスタレーションは、見る側が身体全体で体験する刺激的な空間を生み出してきた。筆者には、昨年の第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで見た作品が、記憶に新しい。それは、檻のような柵が張り巡らされた会場のどん詰まりに広がる闇の中に、旗が不気味に揺れているというものだった。国家へ、国民へ忍び寄る不安や危機、あるいは一つの政治形態の終焉、革命前夜をほうふつとさせた。
クロード・レヴェックの作品
この拙文を書いている今、あのときの作品を切実に思い浮かべる。後継者問題が世界中の注目を集める隣国、あるいは投獄されている人権運動家のノーベル平和賞受賞でやはり耳目を集める隣国のことなど、近隣諸国での、あるいは私たちのこの国と近隣諸国との関係をめぐってデリケートな緊張が続いているせいかもしれない。ときに過剰に芝居じみた空間のように見えて辟易することも少なくないが、むしろ現実はこれら仮想空間よりも複雑怪奇、ドラスティックだと言えなくもない。
今回の出品作≪Hymne≫(2006年)は、「讃美」というような意味だろうか、光と躍動感にあふれるそれは鑑賞者を華やかに、かつ厳かに迎え、プロローグにふさわしい。だが一方、訪れた人を見下ろすように天井からつり下げられた鏡面仕上げの金属板は、輝きのなかに異様なきらめき、不穏さを漂わせ、長くそこにとどまり続ける気持ちにはなれなかった。
ステファン・ウィルクス(1964年/イギリス)は、ビエンナーレのカタログなどによると、人と生活を共にしてきたロバなどの動物を題材に、ぬいぐるみにも似たソフトな彫刻をつくり続けている。今回の出品作≪Metamorphosis≫(2010年)は、巨大な毛虫というか、ナメクジというか、ちょっと気味が悪い生きものだ。天井から幾本もの紐で吊るされた白いその巨体は、文字で埋めつくされ、おもちゃのようであり、またコンセプチュアルな印象も備え、ユーモアや娯楽性と同時に脅威や不安、不確かな恐怖を醸し出す。矛盾し、どちらにでも取れるような仕掛けに、見る側の受け止め方も千差万別だろう。
ステファン・ウィルクスの作品
2009年、中国・上海で創作や経済的支援、著述、展覧会企画など多彩な活動を目的に設立されたMadeInは、スーゼン(1977年/中国)の新たな挑戦ということなのだろう。若いこの作家のことはよく知らないが、ハラルド・ゼーマンが2度目のディレクターを務めた第49回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2001年)などに出品している。あいにく、このときのヴェネツィアには行くことができなかったため、見ていない。
MadeInとして参加した今回の釜山では、残骸のような細かな破片を床に敷き詰めたインスタレーション作品≪Calm≫(2009年)を発表している。最初は、石のかけらのような破片があるだけかと思ったが、よく見ると破片が静かに上下していた。波打つように、ゆっくりと起伏を繰り返しているのである。
MadeInの作品
一見、ただの廃墟のように見えて、実は静かに胎動し始めている。あるいは、平穏に見えて、実は内部では静かに炎が燃え上がりつつある。クロード・レヴェックがヴェネツィア・ビエンナーレで演じた革命前夜にも似た感想を、ここでも抱いた。それに、人はだれもその胸のうちに1つや2つの秘め事を、ひそかな熱い思いを抱いているものなのだ。
■あいまいなテーマが意味すること
釜山ビエンナーレ2010の芸術監督を務めたのは、日本のインディペンデント・キュレーター、東谷隆司である。東京芸術大学卒業後、森美術館(東京・六本木)のアソシエイト・キュレーターをはじめ、釜山ビエンナーレ2008でもゲストキュレーターを務めた経験がある。
その東谷が掲げたテーマは、「進化のなかの生活(生)」だ。人類は、進化のなかを生きてきたし、これからも多かれ少なかれそうだろう。子供の頃、毎日の生活はそれほど変わらず、周囲の景色も対して変化していなかった気がする。田舎に住んでいたせいもあって、宅地が増えるわけでも、また数年ごとに電化製品が新しくなることもなかった。でも、いつごろからか、変化が次第に早くなってゆく。学生時代には見たこともなかったコンピューターが手元にあり、携帯電話なんかは夢の話だった。
半世紀生きた今、あらゆることがますます猛スピードで変わってゆく。大人になって、社会の変化を敏感に感じるようになったためでもあるだろうが、社会それ自身の変化も着実にスピードアップしているのだろう。田舎の景色も、子供のころとはすっかり変わってしまったし、ついこの前まで使っていたポケベルもMDも、それに雑誌の『ぴあ』だって学生時代には必需品だったのに、いつの間にか私の生活から姿を消した。変化、あるいは進化を敏感に意識するようになるのは、年を重ねた必然の結果でもあるのだろう。
今回の釜山ビエンナーレのテーマに初めて触れたとき、筆者の脳裏に浮かんだのは、そのようなごく私的な思いだった。「進化のなかの生活(生)」とは、多かれ少なかれ世の中が進化してゆくなかを、とにもかくにも生きてゆくということだ。「進化のなかを生きる」「進化を生きる」などと言い換えてもいいだろう。まさに漠然としている。どの国も地域も、そしてあらゆる人が、多かれ少なかれ進化を、あるいは変化を重ねているに違いないのだから。
多様な解釈を誘う、あいまいにも聞こえるテーマの設定は、光州の場合と似ている。すでに触れたように、様式的、視覚的に固有のムーブメントに出合う期待を抱きにくい今、まして世界を通底するような新たな理念のメーンストリームを見出しにくい今、ゆるやかな関係性のなかにあいまいな輪郭を描くことが、むしろ個々の欲求に応えるストライクゾーンを広げ、また、かえって適切な時代の空気、雰囲気を伝えることにもなるのかもしれない。
■日用品で軽妙に、多彩に
カダール・アッティア(1970年/フランス)の作品は、軽妙、ユーモアたっぷりだ。カラフルな空のレジ袋が、台座に鎮座している。自立しているような、今にもくしゃくしゃになりそうな、頼りないその風情は、かつてのヴォリューム感にあふれ、重厚長大な彫刻観とはけた違いだ。
日用品をあっさりと、あっけないほどの気安さで登場させる手際は、トム・フリードマンに似た感じを筆者に抱かせる。気安いとは書いたが、たとえば何の変哲もない紙のように見えて、展示されている紙は実は何百時間にもわたって作家自身が見つめ続けたものだったりするフリードマンのように、見かけ以上にコンセプチュアルな背景をアッティアの作品にも感じる。
カダール・アッティアの作品
レジ袋の後ろに、ネオン管とスプレーペイントで「DEMONCRACY」と書かれているのが、そうしたコンセプチュアルな性向を明確に示す。「DEMOCRACY(民主主義)」の「DEMO」と「CRACY」の間に「N」を入れ、「民主主義」が急きょ「DEMON(悪魔)」に転じる。善と悪、戦争と平和など、隣り合う矛盾や容易に解決できない二項対立的な問題へ、鑑賞者をストレートにいざなう。
アッティアは、リヨン現代美術ビエンナーレ2005で≪Flying Rats≫というタイトルの作品を出品した。残念ながら見てはいないが、仄聞するところでは、鳩のエサで作った人形と鳩を同じ檻の中に入れ、鳩がえさを食べてゆくに連れて人形が崩れ、やがて人形が着ていた服だけが残る――といった作品であったらしい。実に興味深い作品だ。カダール・アッティア、ただ者ではない。
鳥と言えば、空っぽの鳥かごを用いて深刻なメッセージに満ちた作品を発表していたのが、カン・テフン(1975年/韓国)だ。天井からつり下げられた幾つもの鳥かごには、肝心の鳥は1羽もいない。部屋の中央には、爆弾のような、核のような、とにもかくにも不気味な物体が居座り、周囲の壁には廃墟と化した景色を撮った写真が張られている。部屋の隅では、可愛らしいぬいぐるみがあお向けになって横たわる。
作品のタイトルは、≪もう鳥は歌わない≫(2010年)。核戦争後の世界、忍び寄る危機など、さまざまな連想に鑑賞者を導く。カタログによると、鳥かごは引きこもりなど現代のさまざまな病巣、苦悩を暗示しているのだという。引きこもりとは筆者には意外だったが、見る人それぞれ多様な感想、解釈を楽しめる作品だろう。
カン・テフンの作品
■印象深い日本人作家の作品
鴻池朋子(1960年/日本)は、雑誌のインタビュー記事でそのプロフィルや考えに触れたことがあった。すでに記憶はあいまいだが、東京芸大の日本画科を卒業後、おもちゃ会社に勤めて、おもちゃのデザインをしていた。芸大では、花鳥風月を黙々と描く周囲の学生に違和感を抱き、興味が持てなかった。おもちゃ会社に入って、初めてつくることに没頭した。そこでは真剣におもちゃをつくるけれども、おもちゃはあくまでも遊びの道具であって、つくる方も遊びの感覚を忘れてはいけない。いわば、真剣に遊びながら、つくるのだと......。
確かそんなふうだったと思う。釜山に並んだ作品を見て、このときの記事を思い浮かべた。誤解を恐れずに言えば、≪Earth Baby≫(2009年)や≪bottom≫など、出品作は一見おもちゃのように見えなくもない。もっと正確に言うと、真剣に遊びながらつくっている、言い換えれば生みの苦しみ、苦悶でさえも楽しみに変えて、とまさにそんなさまが作品からうかがえるのである。
たとえば、≪Earth Baby≫。きらきら光る巨大な赤ちゃんの顔が、真っ暗な部屋の中央でゆっくりと回っている。周りを、星のようなきらめきが埋め尽くす。タイトルが暗示するように、赤ちゃんの顔は、地球のようにも見える。宇宙に浮かぶベビーフェイスの地球である。第一印象は奇想天外、でも次第に神話か英雄譚のような壮大な叙事詩みたいにも映り始める。
大がかりなインスタレーションふうのおもちゃ、といった風情を漂わせつつ、どこか不穏な空気が部屋には充満している。≪bottom≫にいたっては、子供が腰かけているのだが、その子供には上半身がない。下半身だけだ。もちろん、人形だけれども......。
鴻池朋子の作品
いずれもユーモラスで、オーセンティック(真正な)な印象とは裏腹な、むしろ
キッチュな彩りを前面に押し出しながら、どこか深刻で切実な思いのありったけが塗りこめられていると言えばいいだろうか。真剣に遊びながらつくる、その態度のなかにあるいい加減――良い加減という意味、念のため――、そして硬軟織り交ぜたふところの深さが、相反するイメージや矛盾をどちらかに偏ることなく、あるいは冗談過ぎず、深刻過ぎもせず、まさにちょうど好い塩梅に作品を導いている。
人形の髪の毛で空間を埋めるインスタレーション作品の≪BIRTH≫(2010年)を発表したのは、アリス・アンダーソン(1976年/イギリス)だ。用いた髪の毛は3000メートルに及ぶらしい。人形とたわむれた自身の幼少期の記憶が、見る側の記憶ともシンクロする。以前、男性を装って男風呂に侵入し、なかの様子を盗み撮りしたビデオ作品をヴェネツィア・ビエンナーレに出していたカタリーナ・コズィーラ(1963年/ポーランド)の今回の出品作は、2002年に発表した映像作品≪The Rite of Spring≫の2006年ヴァージョンである。
ヴェネツィア・ビエンナーレの作品もユニークだったが、今回の作品も印象深い。裸の男女が軽快な――というか熱狂的な――音楽に乗って踊る、というよりも踊り狂う。まるで、"踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損々"とでも言うようだ。あらゆる自由を訴え、希求する思いが、彼女の作品には通底する。今回の作品には、性転換へのまなざしが色濃く反映されているようだ。あらゆる差別、好奇の目と闘う人たちへのまなざしでもあるだろう。
ちなみにこの作品は、タイトルも示すとおり、ストラヴィンスキー、ニジンスキー、ディアギレフが提唱した総合芸術(音楽+美術+舞踊)としてのバレエに強く影響を受けているという。映像のなかの熱狂的な音楽、あるいは激しい身振りも、ストラヴィンスキーやニジンスキーらが大胆に演じた不協和音や不調和な動きに触発されたものなのだろう。
アリス・アンダーソンの作品
カタリーナ・コズィーラの作品
ディン・Q・リー(1968年/ヴェトナム)の≪The Farmers and The Helicopters≫(2006年)は、ヴェトナム戦争を経験した世代に刻印され続ける傷痕を告発する。ヘリコプターは、たとえば農業に従事する者にとって有益なはずなのに、そうした世代には殺人の道具としか映らない。シン・ムキュン(1970年/韓国)≪Ourcontemporaries in BUSAN≫(2010年)は、IT社会の単調な日常、あるいは非個性的、均質に陥りがちな都市生活の日常をコミカルに、淡々と暴露する。
名和晃平(1975年/日本)は、今回のビエンナーレで秀逸な印象を残した1人である。絵画、映像、インスタレーションと異なる形式を通して、それぞれ生命の生成と生滅、あるいは生命の源泉への関心など、さまざまな思索を誘発する文字通り創造的な環境、空間を創出した。科学との融合をあらわに、緻密に組みたてられた思索の階段への仕掛けは、シャープでアクチュアル、エレガントでもある。
とりわけインスタレーション作品のなかで消滅を繰り返すライトブルーの気泡は、いつまでも見つめていたい衝動に筆者をいざなったばかりか、見終えた後も余韻のなかに筆者を押しとどめ、その余情は拙文を書いている今も残り香のように脳裏にこびりつく。
名和晃平の作品
■顔をのぞかせる多彩な歴史への関心
Dザイン(1970年/アメリカ)の≪Infinite Maharishi(After Yayoi Kusama)≫(2009年)は、タイトルも示すように、草間彌生へのオマージュ的な作品だ。歴史化された日本の巨匠を思い、しばし感慨にふけった。近代以後、日本のアートが歩んだ苦渋と模索の軌跡を思いつつ......。
ビデオ・アートの第一人者で知られるビル・ヴィオラ(1951年/アメリカ)は、≪Bodies of Light≫(2006年)など2つの映像作品を出品している。死と再生をテーマに掲げる≪Bodies of Light≫は、こちらを向く男女の目の前を神々しい光が上下する。21分余りにわたって、鑑賞者はひたすら光の上下を目にし続けるわけだが、よく見ると背後の男女はそのつど表情や姿態に微妙な変化がうかがえ、そこに輪廻生死の永遠のときが刻まれる。
風光明媚な海岸リゾートで知られる海辺の砂浜を舞台に繰り広げられる恒例の彫刻展示に目を移そう。メイン会場の釜山市立美術館での展示をたっぷり楽しんだあと、ついでに海の幸も十分に味わい、ぐっすり眠って迎えた釜山での2日目、地下鉄を乗り継いで訪れたそのリゾートは、真っ白な砂浜を見下ろすようにホテルが建ち並び、好天にも恵まれたせいか早朝にもかかわらず多くの人でにぎわっていた。13点の作品が、砂浜に沿って点在する。
釜山を拠点に活躍するベテラン彫刻家、キム・ジュンミョン(1945年/韓国)の≪Head Series≫(2004~2005)は、彼の代表作と言える作品だ。書籍や電化製品など日常にあふれる、あるいは見知ったさまざまな品々で肉づけされ、かたちどられた幾つかの巨大な人の頭部が、海を睥睨するように並ぶ。品々はどれもブロンズに置き換えられてはいるが、だれの目にもそうと分かるほど明瞭だ。どれもこれも、人間が長い歴史のなかで生みだしてきたものに相違ない。釜山ビエンナーレのテーマに沿って言い換えれば、人類の進化を凝縮し、鮮やかに視覚化する試みと言っていい。
さて、釜山ビエンナーレの会場を一巡して、1つの感想がこみ上げる。たとえば、地球の歩みや社会、生活の軌跡、あるいはごく私的な個人史とでも呼べるようなものなど、関心の矛先は作家それぞれ異なってはいるけれども、多かれ少なかれ個々の作家にそれぞれ特有の歴史への関心が見え隠れする。
具体例をさらに挙げると、ピオトル・ウクラネスキ(1968年/ポーランド)の≪無題(握りこぶし)≫(2007年)は、文字通り巨大な握りこぶしが造形化されている。これまで作家は、ポーランドの政治、民族問題を題材に、社会的、政治的メッセージにあふれる作品を発表してきた。高さ5m51㎝に及ぶ巨大なゲンコツは、故国がかつて経験した暴力的な脅しや弾圧、あるいはそれらへの怒りの象徴として屹立する。
ピオトル・ウクラネスキの作品
歴史への関心を最も象徴的にあらわにするのは、ザドク・ベンーダヴィッド(1949年/イエメン)であろう。≪Evolution and Theory≫(1997年)は、12㎝から2m61㎝までのさまざまな高さの大小250体の薄っぺらな彫刻が、広い部屋いっぱいに展示されている。タイトルも示すように、類人猿から人間まで、進化の過程を追うように時代ごとの人の姿が描かれるほか、人類が生み出してきたさまざまな品々、発明がそこかしこに並ぶ。まさに進化の軌跡、換言すれば人類の歴史そのものである。
ザドック・ベンーダヴィッドの作品
テーマのあいまいさについてはすでに触れたが、多様な解釈を誘うテーマだからこそ、個々の作家にそれぞれ特有な歴史への関心を呼び起こしたのだろう。進化と歴史とはほとんど同義、あるいは表裏にも思えるが、ビエンナーレを通覧して筆者はあえてそこから浮かび上がる印象を歴史と呼んでみたい。こうした多様な歴史への関心は、言うまでもなく個々の作品にアプローチするうえでも格好の指針となる。
ただ、釜山でも、すべての作品に通底する様式や技法、素材など一定の筋道は見いだせないし、歴史への関心も程度にはそれぞれの作品で雲泥の差がある。それでも、百花繚乱のごとくイメージがあふれる光州ビエンナーレと並べてみるならば、毎日新聞への寄稿(2010年10月21日付け夕刊文化面)のなかでも触れたように、筆者は次のように言ってみたい。「例えば、光州をイメージの『デパート』と呼ぶなら、釜山は矛先こそ異なってはいるけれども、歴史への関心を共有する『専門店街』と言えるだろうか」と。
今年は、東アジアで大規模な国際美術展が相次いで開催されている。日本の瀬戸内国際芸術祭、あいちトリエンナーレ、そして韓国での2つのビエンナーレに続いて、中国で上海ビエンナーレも始まった。瀬戸内国際芸術祭は、アートを通して過疎化の進む瀬戸内の島々の魅力を再発見しようともくろむ。あいちトリエンナーレは、美術のほかに演劇やダンス、オペラなど多彩なジャンルを盛り込み、クロスジャンルのスケールメリットを利用して差異化を図る。
「大きな物語の凋落」と「小さな物語の林立」や脱中心、脱領域などの兆候で語られたときを経て、世界を通底する新たな動向、テーマと出会う期待がますます持ちにくい今、国際美術展はかつてのようなお決まりのテーマ主義や最新作重視など従来型からの逸脱を多彩に試みる。あふれるイメージに改めて向き合うことから、あるいは歴史への関心を手掛かりに、今回の光州や釜山も新たな国際展へ向けて果敢な試行錯誤を試みた。継続のなかで、確かなホップ、ステップ、ジャンプを――。
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光州ビエンナーレは、光州市内の専門展示館をメーン会場に11月7日まで。釜山ビエンナーレは、釜山市立美術館をメーン会場に11月20日まで。
*撮影はすべて石川健次