光州ビエンナーレ2010&釜山ビエンナーレ2010 前編
薄れていくメッセージ性
文●石川健次(東京工芸大学准教授)
薄れていくメッセージ性
文●石川健次(東京工芸大学准教授)
韓国で光州ビエンナーレと釜山ビエンナーレが開催中だ。同国では最大規模の国際美術展で知られる両ビエンナーレは、光州が8回目、釜山が5回目を数える。1990年代以降、多文化主義の台頭やアートによる街の再生への気運を背景に、新たな国際展が世界各地で相次いで誕生した。両ビエンナーレは、とりわけ東アジアでのそれらの先駆的、代表的存在として着実な歩みを続けている。ほぼ毎回、現地を訪れてきた筆者は、今回もオープン間もない9月上旬に当地を訪ね、アップ・トゥー・デイトな作品を楽しんだ。以下に今回の特色や主な作家、作品など、印象に残るトピックのいくつかを紹介しよう。
■写真、映像、パフォーマンス......
今回の訪問では、成田を発って、まずソウルに向かった。光州、釜山を訪れる前に、ソウルで開催中の「韓国国際アートフェア(KIAF)」を見るためだ。9回目を迎えるKIAFだが、筆者には初体験である。かねてからその規模の大きさ、活況は耳にしていた。実際に訪れてみて、想像以上の規模だったというのが実感だ。
日本でもアートフェア東京など、数多くのアートフェアが開かれている。たとえば現在、日本最大規模のアートフェアで知られるアートフェア東京には今年(2010年4月開催)、海外9都市を含む国内外から140軒近いギャラリーが参加した。ところが、KIAFには国内外16か国から200軒近いギャラリーが参加していた。会場も広く、そのぶん各ブースも広かった気がする。
ビッグネームももちろん見られたが、むしろカッティング・エッジな現代アートがあふれ、泰西名画、骨董の類はほとんどない。現代アートへ寄せる韓国国内の美術関係者の意気込み、あるいは現代アートの受容のありさまが、ほうふつとさせられた。とはいえ、現地で会った、何度もKIAFに足を運んでいる日本の美術関係者によると、かつてほどの活況はないそうだ。とりわけ、リーマン・ショック以降、韓国のアート市場もなかなか苦しい状況のようだ。ソウル以外に、光州や釜山でもアートフェアが始まり、観客の関心も分散傾向にあるという声も聞いた。
その日はソウル市内に泊まって、翌朝早く、韓国高速鉄道(KTX)で光州へ向かった。到着するや、さっそくタクシーでビエンナーレ会場へ。メーン会場の専門展示館には、例年通りアドバルーンが空高く浮かび、期待で高揚する心をいっそうかきたてる。会場入り口でリュックサックを背中にではなく、おなかの方で抱えるようにと注意を受け、さっそく中へ。
まずは、キム・サンギル(韓国/1974年生まれ)の写真、ブルース・ナウマン(アメリカ/1941年)の映像、サーニャ・イヴェコヴィッチ(クロアチア/1949年)のパフォーマンスと続く。新鋭、ベテラン入り混じるイントロだが、写真はともかく、冒頭から映像、パフォーマンスと気の短い筆者にはやや気のりしない作品が相次ぐ。目や鼻など顔をスローモーションで映し続けるナウマンの映像は、52分! 1日しか見る時間のない筆者には、酷な長さだ。家に持って帰って、ゆっくり眺めることができたらいいのに......。
イヴェコヴィッチのパフォーマンスは、1980年の光州事件に材をとった新作≪On the Barricades≫だ。膝くらいの高さの四角いステージに、10人近くの若い男女が思い思いに座っている。そう、ただ座っているだけ。「?」と思っていると、そのなかの1人が鼻歌を歌い始めた。鼻歌と言うか、いわゆるハミングである。周りの壁には、光州事件で犠牲となったと思われる人たちの写真が張られている。ハミングは、事件当時の流行歌らしい。
光州事件当時、流行歌を口ずさみながら、多くの人たちがバリケードに参加したのだろう。知人がこの作品を見たときには、演じているのは若い男女ではなく、おばちゃんたちだったそうだ。いろいろな人が参加、協力しているのだろう。イヴェコヴィッチは、ジェンダーやアイデンティティーなどを主題に、コンセプチュアルな写真や映像、パフォーマンスで知られる。今回の作品も、印象に残る作品だ。
■跋扈する複製文化
マイク・ケリー(アメリカ/1954年)のインスタレーションなどを見て、フランコ・ヴァッカリ(イタリア/1936年)の作品が並ぶ部屋へ。1972年のヴェネツィア・ビエンナーレで発表した≪leave on the walls a photographic trace of your fleeting Visit≫の再制作である。タイトルからも分かるように、つかの間の滞在の痕跡を写真で壁に残せと迫る参加型の作品だ。日本でもよく見かけるような、お金を入れて証明写真を撮る自動撮影装置が2台、会場の片隅に置かれている。ただし、お金はいらない。
すでにたくさんの人が撮影の順番を待っていた。撮影が終わると、装置から4枚セットの証明写真が2組出てくる仕組みだ。そのうち1組は、タイトルどおりに会場の壁に張って、そこを訪れた痕跡として残してゆく。もう1組は、記念(?)に持ち帰ることができる。筆者も当然、チャレンジした。ただし、なかなか撮影の順番が回ってきそうになかったので、いったんその場を離れ、後ほど再び戻って撮影した。1組は壁に、もう1組は今も手もとにある。
さらに進むと、大きな部屋にフィシェリ&ヴァイス(いずれもスイス/フィシェリが1952年、ヴァイスは1946年)の写真を用いた作品が並ぶ。≪Visible World≫と名づけられたこの作品は、1986年から2001年にかけて、20年近くの間に2人が世界中を歩くうちに撮影した3000枚のスナップショットが、長さ28メートルを超える長大なライトテーブル上に整然と並んでいる。
ピラミッドやありきたりの街の景色、山岳風景など、おそらく観光や仕事などで訪れるたびにシャッターを切ったに違いないさまざまな風景が登場する。どれも特段珍しいというか、凝ったものはなく、ふだんの彼らの仕事を思わせるような日常的な光景ばかりだ。でも、これだけ大量に並ぶと、それだけでも壮観だ。
フィシェリ&ヴァイスの作品
膨大な写真、そこに切り取られた世界の景色に、スーザン・ソンタグの言葉を思い浮かべた。「写真を収集することは、世界を収集すること」「今、あらゆるものは写真になるために存在する」(『写真論』)。跋扈(ばっこ)する複製文化、その筆頭に挙げられるのが写真だろう。私たちの生活は今や、否応なしに写真が紡ぐイメージに支配され、一方ではシャッターを切ることで容易にイメージを生み、ネットを通じて流布させることも可能だ。真っ暗な部屋で、ライトテーブルに照らされた写真だけが煌々とその存在を主張する、否、写真だけが意図的に誇張されて見えるこの作品に、巨大メディアにのし上がった写真の勢いを改めて思う。ただ、いくら膨大な量とはいっても、すべてではない。世界が収集されたわけではない。
やがて、ドキュメンタリー写真家として著名なウォーカー・エヴァンズ(アメリカ/1903~1975年)の写真と、それらを複製したシェリー・レヴィン(アメリカ/1947年)の写真が左右に対比されて並ぶ。レヴィンの作品は、作品集から複製する段階で意図的に質の低下が行われ、文字通り「複製技術としての写真」の本性に見る側の関心を誘う。
歴史的な傑作を剽窃するレヴィンの作品は、オリジナルもコピーも入り乱れ、それらのどちらでもないシミュラークルがポストモダンには支配的になると言ったジャン・ボードリヤールの言葉をほうふつとさせもする。学生の頃、レポートを書くのに孫引きばかりしていたけれど、あれもシミュラークルだったのかもと自身の不勉強を棚に上げ、つい妄想にも似たあれこれに思いをはせた。
シェリー・レヴィンとウォーカー・エヴァンズの作品
■より開かれた存在へ脱皮する光州ビエンナーレ
アンディ・ウォーホルの作品をやはり剽窃するエレイン・スタートヴァント(アメリカ/1930年)の作品なども併せて、跋扈する複製文化への関心がそこかしこで垣間見られる。とはいえ、今回の光州ビエンナーレのテーマがそれと深くかかわっているわけではない。むしろ、テーマは見えないというのが実感だ。否、この言葉は正確ではない。正確さを欠く理由については後ほど触れることにして、まず――これだけ書き進んできて「まず」でもないが......――今回のビエンナーレが公式に掲げるテーマについて触れよう。オッとその前に、まだ芸術監督の紹介もしていなかった。
エレイン・スタートヴァントの作品
今年の光州ビエンナーレは、イタリア出身のマッシミリアーノ・ジオニを芸術監督に迎えた。ナイジェリア出身だった前回のオクイ・エンヴェゾーに続けて、現在はニューヨークを拠点に活動するキュレーターである。ジオニが掲げたテーマは、「一万の命」。無数の人々の多様な生を連想させるテーマは、言い換えれば普遍的、通底する理念の不在を暗示するようなものだ。
結論から言うと、会場に並ぶすべての作品に通底する理念、形式や内容を見出すのは困難だろう。テーマは見えない、と注釈付きではあるが、書いたのはそのためだ。ジオニ自身、テーマに触れて、毎日たくさんのイメージが生産され、消費されているイメージ過剰の時代を検証したい、といった意味のことを地元紙などに語っている。跋扈する複製文化ではなく、強いて言えば、氾濫するイメージ、現代アートが生みだす多様なイメージこそがもくろみと言えるだろうか。
会場に並んでいるのは、カッティング・エッジな作品はむしろ少ない印象を受ける。冒頭で、「アップ・トゥー・デイトな作品を楽しんだ」と書いたが、それもさっそく訂正しなければならないかもしれない。時代は20世紀初頭から現在まで、作品は絵画や彫刻などかつてファインアートと呼ばれていたものをはじめ、写真や映像、インスタレーションなど、新旧織り交ぜて多彩な形式が百花繚乱のにぎわいを演じているのだから。ジオニの言葉に沿えば、むしろこう言ったほうが妥当だろうか。もくろみ通りの展示である、と。
企画意図を斟酌(しんしゃく)すれば、通底するテーマはむしろ夾雑物と呼べるかもしれない。一言でくくられるようなテーマとは無縁な現代アートの現状をこそ俎上に挙げているだから、あいまいにも聞こえるテーマはかえって適当と言っていいのかもしれない。テーマは見えないという言葉が正確ではないと言ったのは、それが理由だ。
光州事件など韓国では民主化運動の聖地として知られる光州の地で開催されるビエンナーレは、創設当初からテーマの設定に民主化や人権問題を色濃く反映してきた。1、2回目は、特にそうした傾向が強かったように思う。しかし、回を重ねるごとにその傾向は薄れ、直近の1年間に世界各地で開催された展覧会の再展示を中心に構成された前回のビエンナーレなどは、多文化主義の台頭に後押しされたかのようにそうした傾向は相対化され、一つの要素に囲い込まれた印象を受けた。
もっとも、すでに紹介したサーニャ・イヴェコヴィッチのパフォーマンスをはじめ、かつての中国での過酷な小作農民の生活を100体余りの彫刻で再現した作品や、民主化運動のなかで散った学生運動家の肖像を用いたチェ・ビョンス(1960年/韓国)の作品など、民主化や人権問題を扱う作品は今回も展示されている。その鮮明なメッセージ性に支えられ、訪れた人の関心も深いように思われた。
チェ・ビュンスの作品
だが、芸術監督のジオニが語った言葉が暗示するように、民主化や人権問題への関心は常に懐に大切に抱きつつも、光州ビエンナーレはむしろ多様化、拡張するアートそれ自身に矛先を向け、より開かれた存在へ脱皮し続けたいと願っているように筆者には映る。
■指針なき時代の国際展
開かれた存在へと脱皮を繰り返す光州ビエンナーレといえども、一人の芸術監督を中心に企画を進めてゆく手法を採用しているため、ときに恣意的に映ることもあるだろう。そもそも、アートが個人的趣味の顕現や受容だとすれば、個人的趣味のダイナミックな発露としての国際展が、ときに普遍性や広範な説得力を持ちえないとしても不思議はない。
リニアな進化が期待され、信頼もされているならともかく、「大きな物語」の凋落や、それに伴う「小さな物語」の林立が叫ばれたときを過ぎて、通底する新たなストーリーに出合う困難さはだれの目にも明らかだろう。テーマ主義やカッティング・エッジな作品重視など、スタンダードともなっていた従来型の国際展が標榜する指針は、万人を虜にする魅力も、絶対的なパワーも失ってしまったのかもしれない。多文化主義やポリティカル・コレクトネスなど、21世紀を迎えるころまでは確かに頻繁に耳にする言葉があったような気がするけれど......。
さて肝心の作品に話を戻そう。ガムテープや段ボール、マネキンなど日常にあふれる素材で空間を埋め尽くすインスタレーションで知られるトーマス・ヒルシュホルン(1957年/スイス)は、2006年制作の≪Embedded Fetish≫を出品している。フランスのアート界で目覚ましい活躍をした作家に贈られるマルセル・デュシャン賞を2000年に、2004年にはヨーゼフ・ボイス賞を受賞するなど、実力、人気ともに群を抜く作家だ。仄聞(そくぶん)したところでは、パリで開催された展覧会に出品した作品が母国スイスを侮辱しているとして、スイスの国会で論議の的になるなど話題には事欠かない。それだけビッグだということだろう。
≪Embedded Fetish≫は、大きな壁一面を無数のマネキンの頭部が埋めている。マネキンにはそれぞれたくさんのクギやビスが打ち込まれ、痛々しい。それだけでも異様だ。そのうえさらに、ところどころに自爆テロの犠牲となった人たちの無残な姿を撮った写真が張られている。血を吐き、めちゃめちゃに破壊された肢体をさらしたそれらの写真を目にして、思わず横を向いた。マネキンやクギなどチープな素材が、異様なはずの光景を――どこか遠くの、きっと対岸の火事みたいなものだったはずなのに――隣合わせの恐怖へと変えてしまう。
トーマス・ヒルシュホルンの作品( 部分)
ポーランド系ユダヤ人の両親のもとに生まれたグスタフ・メッツガー(1926/ドイツ)は、ホロコーストなど歴史上の悲惨な出来事を告発する写真のシリーズを並べている。資料によると、12歳のときにユダヤ人の子供を受け入れる運動によって救われ、イギリスに亡命したという経験を持つこの作家にとって、その体験や記憶が癒やされるときはおそらく来ないだろう。他者の想像をはるかに超えているに違いないそうした体験や記憶と向き合うのは、愉快であるはずがない。でも一方、そうした体験や記憶が地上から年々薄れてゆくのは堪えがたいにも違いない。
出品されているシリーズは、現在も進行中らしい。写真を覆い隠すように張られた幕や筵(むしろ)のようなものをめくって、私たち見る側は初めて作品と対面する。見るというよりは、のぞくと言ったほうが適当だろう。覆い隠す、あるいはめくる、のぞくという行為に、忘れ去ってしまいたいほどの痛みと、歴史のなかに埋もれてゆく不安との葛藤が見え隠れする、筆者にはそんなふうに映る。
グスタフ・メッツガーの作品
■時空を超えた共演
アンフォルメルの大家で、厚塗りのシリーズ作品≪人質≫でとりわけ知られるジャン・フォートリエ(1898~1964/フランス)の1943年の作品をはじめ、オプティカル・アートで知られるブリジット・ライリー(1931年/イギリス)の近作(2004年)など、筆者が学生時代にすでにスタンダードな美術史のなかで親しんだ大御所、傑作とも出会う。緩やかな曲線を奏でる色帯の複雑な重なり、連なりが目を翻弄するライリーの≪Painting with Two Verticals≫は、作家の創造力が今も清新さを失っていないことを告げている。
時代は20世紀初頭から現在まで、作品は絵画や彫刻などかつてファインアートと呼ばれたものをはじめ、写真や映像、インスタレーションなど、新旧織り交ぜて多彩な形式が百花繚乱のにぎわいを演じる。今回の光州ビエンナーレのこうした趣向は、フォートリエやライリー、さらに言えばドキュメンタリー写真のリー・フリードランダー(1934年生まれ/アメリカ)ら大家が、冒険途上の新鋭や最近の国際展での常連作家などに交じって、時空を超えた共演を見事演じきっているからこそ実現したとも言い換えられるだろう。
大家と言えば、1950年代の「実験工房」の時代からテクノロジーが切り開く新たなアートの可能性を追い求めている山口勝弘(1928年/日本)や、まさにその「実験工房」(北代省三、大辻清司、山口勝弘/1951~1958)など、日本からの出品者、出品作も見逃せない。画家の福島秀子や音楽家の武満徹らも参加していた「実験工房」からは、1955年制作の映像作品≪銀輪≫が出品され、上映されている。35ミリフィルムで撮られた12分足らずのこの作品には、颯爽と風を切って走る自転車にあこがれる少年の期待や夢に交じって、高度成長への無限の期待やテクノロジーへの信奉、科学とアートとの共存共栄など、時代の息吹や背景、さらに当時のアヴァンギャルドな世代が共有していたのであろう心情が色濃くにじむ。短気な筆者も、飽きることなく最後まで見入った。
台頭するネオ・コンセプチュアルな作品
印象深い作品を、さらにもう2つ、3つ挙げよう。映像やパフォーマンス、インスタレーションなど多彩な表現を続けるポール・マッカーシー(1945年/アメリカ)の作品は、1990年に発表された可愛らしいおもちゃの人形だ。でも、おなかの部分が切り裂かれ、なかをのぞくと臓器が......。ユーモアとグロテスクな印象が同居する。
ポール・マッカーシーの作品
郵便配達や家具デザイン、庭師などさまざまな職業を経てアーティストになったというユニークな経歴の持ち主、マウリツィオ・カテラン(1960年/イタリア)の≪無題≫(2008年)は、絵画の額のような大きな木枠のなかで、キリストのような人物がはりつけになっている。ただし、人物は見る側に背中を向け、キリストの受難を思わせるというよりはむしろユーモラスで、笑いを誘う。聞けば、最近の国際展では常連と言ってもいいカテランは、スタジオを持たず、自分では制作しないのだとか。まさに究極のコンセプチュアル・アートと言えるだろうか。
マウリツィオ・カテランの作品
マッカーシーやカテランは、しばしばネオ・コンセプチュアリズムと呼ばれる昨今の動向を体現する作家のように言われる。純粋に概念に昇華していたはずのコンセプチュアル・アートは、ポストモダンを背景に多様化、拡張し、視覚的にもさまざまな表現が試みられているようだ。反物質、非物質を標榜して観念性を重視したかつてのコンセプチュアル・アートは、文字の使用が典型的であるように、そうした明瞭な志向が見る側の眼にも明らかだったように思う。
だが、多様化、拡張されたネオ・コンセプチュアル・アートに視覚的な類似性は見えにくく――見えないというのがまさにコンセプチュアルとも言えるだろうが――そもそも広義にはいわゆるテーマを含めてコンセプトのない作品はないとも言えるわけだし、少なくとも激しく奇抜に現在進行中の彼らの作品を狭義な意味でネオ・コンセプチュアリズムとグルーピングする無謀は控えたい。
それにしても、一見すると置物のようなジェフ・クーンズ(1955年生まれ/アメリカ)の作品≪Ushering in Banality≫(1988年)は、キッチュの雰囲気を醸し出しながら愛らしく、すっと心になじむ。クーンズの全作品に通底する思い、つまり見る側とのコミュニケーション、ダイアローグを最重要視するクーンズの願望をコンセプトと呼べば、クーンズ作品はまさに極上美味なコンセプチュアル・アートとも言えるだろうか。
ジェフ・クーンズの作品
*撮影はすべて石川健次