〈相原慶樹展〉
直「観」的作品が伝える希望
文●宮田徹也 日本近代美術史
直「観」的作品が伝える希望
文●宮田徹也 日本近代美術史
■秒毎に着実に様相を変化
ギャラリイKがホワイトキューブと化し、蛍光灯が灯る床に、一つの瞳が瞬きをしている。たったこれだけの作品に、相原が時勢に対して見解を持ち、現代の我々がこの《Peace Offering》(食塩、鉄板、映像/5400×3600mm/2008年)を必要としていることを感じ取れる。それ程この作品は、直「観」的なのだ。
映像作品として注意を促すと、この相原自身の眼には二種類あり、白塗りの瞼と赤いアイシャドーの瞼が3分間ずつ交互に瞬いていることが分かる。また、瞬く眼の位置が、神の視点である天井、人体の視点である壁、自己を卑屈にする底ではなく、入口から見て奥の床であることも重要だ。その眼は虚ろな眼差しでも何処を見ているのか分からない状態でもなく、確実に何かを見据えていながらも凝視せずに瞬いているといえる。
身体論としてとらえることも可能であろう。現在、多くの舞踊、舞踏、パフォーマンスアートが存在するが、その多くは1970年代の肉体よりも印象に欠ける。それは美術作品も同様で、人体が分化され、切断され、継接ぎにされる現状を振り返るまでもない。この動向の中で真直ぐな視線を持つ眼のみに語らせることに、大きな意義を読み取るべきだ。
インスタレーションとしての特徴を記すと、驚くべきことにこの展覧は、日毎、否、秒毎に着実に様相を変化させていた。初日に見えた眩い白い床は、床から10mm浮かした鉄板の上に約5~10mmの厚みで敷き詰めた塩の粒子であった。この塩が期間中に鉄板を腐食し、錆を生み出すのである。展示7日目から鉄板に肉眼で確認できる激しい変化が生じ、最終日に色は落ち着き柔らかくなった。それにより一瞬の判断では認識出来ないほどに、映像が薄れたように見える。これは雪の世界から大地への装いの変化と、時間の経過による肉体の一部が薄れてゆくという人間の存在の尊厳や価値観を表していると相原はいう。錆が発生したというよりも鉄と塩の間で異なるものが誕生したと解釈することができる。また、鉄板が腐食するのは破滅ではなくむしろ、生成するという「現状」を見せてくれると言い換えることもできる。現代を否定するのではなく客観的にとらえ、尚且つ希望を棄てていないとも読み取れる。
前回までの相原の展示は、闇の空間に肉体の映像を置くものであった。今回は正反対であるというよりも、この明るすぎる空間で眼を開くことに展開した点に着目すべきだ。
初日展示風景
8日目展示風景
11日目展示風景
■創造的な生き方とは
相原が今回の展示に対して残したコメントを抜粋する。「過去において、貧困、圧政、暴力によって地に伏した人類の数は計り知れません。その死の存在すら認識されずに死んでいった人々、彼らの犠牲や存在を認識するためのプロジェクトです。...現代において個の孤立という問題があります。新たに形成された集合体においても個の存在が個であり続けるために、集合体が連帯を密にして個をフォローしていかなければなりません。...昨今の世界情勢の中、少数の圧倒的な経済力、武力が他の大多数の少数を支配しようと奔走しています。常にcreativeの領域で生きる事に挑戦していこうと思います。」
犠牲と存在を確認し、個の孤立に対して注意を払い、その情勢の中で創造的な生き方を目指したい、そのように語る相原の作品は、我々を単なる制度論に引き摺らず、美術を見ることの、美術であることの意味を問いかけてくるのである。