〈スー・グリアソン展〉
自然との、そしてさまざまな対話と思索
文●石川健次(東京工芸大学准教授、美術批評)
自然との、そしてさまざまな対話と思索
文●石川健次(東京工芸大学准教授、美術批評)
■小高い山の中腹に建つ瀟洒な風情の漂うギャラリー
それは、不思議な光景だった。古都・鎌倉のやや北方、JR北鎌倉駅から歩いて十数分、小高い山の中腹付近に、それはある。文字通り樹木や草花があふれる自然の真っただ中だ。作品の展示をするために設けられた建物という意味では、ギャラリーと言えるだろう。でも、建物の周囲、そこかしこの自然のなかにも作品が点在し、まるで野外美術館と言えなくはない。
その名を、「ポラリス☆ジ・アートステージ」(以下、ポラリスと表記)。ギャラリーのような、野外美術館のようなそれは、2003年に現代アートの紹介、未来を担うアーティストの支援などを目的に、アーティストでもある十倉宗晴によって創設された。これまでに、十倉自身をはじめ、吉田重信や山本基、ヒグマ春夫、加賀谷武、倉重光則、森哲弥など、すでに数多くの作家の展覧会を、いずれも企画展として開催している。
ややオーバー、かつ身勝手な言い方を許してもらえれば、北は北海道から南は鹿児島(沖縄には行ったことがない)まで、すべてとはもちろん毛頭言わないが、各地のさまざまな美術館、ギャラリーを訪ね歩いてきたと思う私だが、創設から2010年の今まで、一度もここを訪れていなかったことが悔やまれる。それも一昨年に鎌倉の隣、逗子に引っ越して来ていたのだから、その思いはますます強い。アートと同様、それを支える施設や環境、人も多様で奥が深い、と改めて思う。私自身の不勉強や無知を棚に上げて、ではあるが......。
さて、ポラリスについては後に改めて触れるとして、肝心の今回の展覧会について記したい。2010年3月20日から4月25日まで開催されている「スー・グリアソン展」である。展覧会のチラシによれば、スー・グリアソンは、言葉やビデオ、映像、立体、インスタレーションなどさまざまな素材、技法を駆使するスコットランドの作家だ。横浜美術館で個展を開催したことがあると書かれていたので、さっそくネットで検索してみた。やや長いが、そのプロフィール、仕事が概観できるので以下に引用したい。
「スコットランド在住の美術家、スー・グリアソンはもともと染色の研究者でしたが、50才を過ぎた頃より、現代作品の制作を始め、風景をモチーフにした写真や平面作品、映像作品を制作しています。本展《Slice》では、実在の風景を撮影した写真、コンピューター処理した架空のイメージや、オブジェ、映像、短いテキスト等を組み合わせた、6点の新作インスタレーション作品を展示します。同じ風景を見ても、人それぞれの見方や解釈が異なります。また、一見なんの関係もないような複数のイメージも、ある視点を与えることで、ひとつの物語として見えてくることもあるでしょう。断片的なイメージを集め、再構成することによって、彼女は、見るという行為が持つ多面性を示そうとするのです」(横浜美術館アートギャラリー企画「スー・グリアソン展」2004年10月9日~同11月7日 横浜美術館ホームページから)。
実はまだ幼い子供を連れて出かけたので、鑑賞する十分な時間はとれなかったが、ポラリスとの、そして作品との新鮮な出会い、刺激的な体験をできるだけ詳細に振り返ってみたい。常々、展覧会はただ作品と向き合うその瞬間だけが肝心なのではなく、自宅を出てから帰るまで、さらに言えば目当ての展覧会を見に行こうと決めたときから見終わって余韻が冷めるまで、すべてが展覧会の醍醐味だと考えている(当初の余韻が冷めた後も、記憶や知識として醍醐味は引き継がれるけれど)。今回は、送られてきた展覧会案内に掲載されている会場までのアクセス地図にまず驚いた。
JR北鎌倉駅から十数分歩いた山のなかにあるみたいだが、目印となるのが個人の家だったり、細い上り坂、石段など妙に細かい。試しに会場のポラリスをネットで検索して、さらに詳しいアクセス地図を見てみた。すると、「大きい平屋」「丸い赤レンガの家」「石段4段」「左側に小さな石段6段上る」など、実に細かい指示、配慮がほどこされている。言い換えれば、それだけ複雑で分かりにくいということだろう。いったいどんなところ? 興味がふつふつと湧きあがる。
会場に近づくに連れて、次第に道が細くなってゆく気がした。いよいよ会場という頃には、すっかり山道になっていて、学生時代にワンダーフォーゲル部で野山を駆け巡った記憶がよみがえる。とはいえ、たかだか駅から十数分の距離だ。石段も上り坂も確かにあったが、まったくと言っていいほど苦にはならない。途中、別のギャラリーがあったり、軒並み大きな家が並んでいたり、初めての地で見慣れない景色に囲まれて、楽しかった。
自然の中のポラリス☆ジ・アートステージ
冒頭に書いたように、ポラリスは小高い山の中腹付近にあった。場所が場所だけに山小屋風を想像していたが、大きなガラスと黒い板壁におおわれたそれはモダンで、贅肉がそぎ落とされ、むしろ都会の雑踏のなかにあっておかしくないような瀟洒な風情が漂う。豊かな緑、自然とのコントラストに、まずは瞠目した。樹木が生い茂る斜面から突き出るように建っているため、眼下の眺めもいい。わずか十数分歩いただけで、さっきまでの喧騒はどこへやら、気分はすっかり非日常、異次元、リゾートである。
■「ふたつの世界」をあぶり出す作品群
建物のなかに入ると、1階奥の小部屋に平面作品が4点並ぶ。さまざまな景色が、画面上に複雑に絡み合っているようだ。色彩の豊かさも印象的だ。スー・グリアソン自身が書き留めた作品解説によれば、こうある。「これらのラムダプリントは、大学で使われているプロセスによりコンピューター上で作成し、パターンと『現実の』風景写真とを重ね合わせました。現実と非現実との中間に存在する世界を現わしています」。原文は英語だが、邦訳もされていた。現実と非現実が、矩形の上に曖昧で、淡く緩やかな境界を奏でながらカラフルなリズム、印象を刻む。現実と非現実、これこそ、実はスー・グリアソンの今回の展覧会を支配する統括的なテーマともなっている。
1階に並ぶ平面作品
件の作品解説にも、今回の展覧会について、次のように書かれている。「これらの作品の制作には、私の、ある思いや考えが込められています。興味のある方のために、作品について少しお話しましょう。『ふたつの世界』が、この作品のテーマです。現実の世界と非現実の世界。自然の摂理が支配する実世界と、単純化と美で秩序化しようとする人間の欲求により作り出された非現実的世界。そのふたつの世界が一緒になれるような場所を探していました」。現実と非現実が、矩形の上に曖昧で、淡く緩やかな境界を奏でながらカラフルなリズム、印象を刻む先のプリント作品は、まさに作家が言う「ふたつの世界が一緒になれる(なった?)ような場所」である。
どのような経緯で、この展覧会が開催されることになったのか、私には詳しく知る由もない。だが、作家の思いが吐露された一文を読んで、スー・グリアソンがこの場所で作品を展示してみたいと思った理由の一端を、想像することはできる。
「大きなガラスと黒い板壁におおわれたそれはモダンで、むしろ都会の雑踏のなかにあっておかしくないような瀟洒な風情が漂う。豊かな緑、自然とのコントラストに、まずは瞠目した」。ポラリスの第一印象を、私はそう書いた。建造物であるポラリスが「単純化と美で秩序化しようとする人間の欲求により作り出された非現実的世界」であるとすれば、豊かな緑、自然はまさに「自然の摂理が支配する実世界」であろうか。スー・グリアソンが言う現実と非現実との拮抗、コントラスト、あるいは融和は、まさにこの展覧会場に、ポラリスと周辺の自然のなかにも見出されるのである。
だが一方、見逃してはならない、あるいは補足しておかなければならないことがある。その思いを吐露した一文で、作家は続けて次のように書いている。「どちらかがどちらかより優れていると言いたいのではありません。そのふたつの世界があることを作品を通して明確に認識していただきたいと願っています」。現実と非現実とが、対立しているのでも、またどちらかが良く、どちらかが悪いのでもない。共存するさまを、ありのままにあらわにしようと試みるのである。
そうした展覧会コンセプトをだれの目にも明らかに、明確に伝えたいとでもするかのように、現実と非現実とが平易に視覚化されている作品が、ポラリスのまわりの樹木の根元に散在している。白い磁器と茶色の陶器でつくられた2種類の葉の作品だ。実物大につくられたそれらの葉っぱは、今まさに樹木の枝から舞い落ちたかのように、すました表情でそこかしこに散らばっている。
白い磁器と茶色の陶器で作られた2種類の葉の作品
でも、いくら葉に似ているとはいえ、人工的なオブジェに過ぎない。「自然の摂理が支配する実世界」へ近づきたいと希求はしても、しょせんは「自然の摂理が支配する実世界」からはよそ者、「単純化と美で秩序化しようとする人間の欲求により作り出された非現実的世界」の住人である。自然の再現であると同時に、再現である限りそのものにはなりえないのだ。矛盾する自己、アンチノミー(二律背反)的な存在......、想像はどこまでも駆け巡り、現実と非現実とのあわいは、そのボーダーを限りなく薄めてゆく。
再びポラリスの内部に戻ろう。ピンク地にモクレンの白い花がプリントされた布が、1階から2階へかけて、階段に沿うように展示されている。作家自身が記した作品解説によれば、「本物の木が自然の法則に則って、折れ、倒れ、朽ちていく様を模して、布地を切り取りました」。解説にもある通り、布は折れ、ところどころ切り刻まれながら、下から上へ、あるいは上から下へ、宙を浮遊するように連続する。自然を模したそのさまに、やはり現実と非現実との拮抗、融和への関心がにじむ。
ポラリス☆ジ・アートステージ内に展示されたインスタレーション
ここでもう1つ、補足しておかなければならないことがあるかもしれない。どうもこれまでの私の拙文では、現実と非現実の対比を、あたかも自然と非自然であるかのように書きつづっている印象があるように思う。でも、スー・グリアソンが言っているのは、たとえば「自然の摂理が......」であって、「自然」それ自身ではない。人為的な営みでさえ、万象を支配しているはずの理法にかなったことであれば、必ずしも非現実的世界と言うことはできないだろう。
2階に上がると、バーコードが描かれた2点の平面作品が並ぶ。並ぶというよりは、床や壁に無造作に立て掛けられているといった印象だ。一方の作品では、縦に走るバーコードの線に加えて、咲き誇る草花をほうふつとさせる景色が、まるでバーコードの線と絡み合い、重なり合うように描かれている。緑、黒、赤、交錯する色彩が生き生きと脈打ち、バーコードの単純な線さえリズミカルに弾んで見える。バーコード、草花......、作家の意図は明白だろう。
2階に並んだ平面作品の展示風景
これらの作品に対面して、気づいたことがある。バーコードの縦の線は、まるで林立する樹木のようだ。ポラリスという特異な環境を背景に、作品と対面したゆえでもあるだろう。窓の外には、まさに多種多様な樹木が林立する。窓外と窓内で、樹木がひしめき合っているのだ。本物と偽物の樹木が......。
「すべてのものが、基準に合い、現代社会のニーズに合うように生産されているのです」。自身の言葉による作品解説のなかで、作家はそう言う。草花でさえ、街で売り買いされるときにはバーコードの助けを借りているかもしれない。自然さえ、恐れを知らない人間の手で、もしかすると管理されているのかもしれないのだ。否、正確に言おう。管理されようとしているのかもしれない。筆者の眼には、自然に潜在する脅威を、言い換えれば人間の思い上がりを、作品は暗示し、告発しているようにも見える。
やや脱線するが、森村泰昌がFMラジオ(J-waveだったと思う)のインタビューのなかで、自作について語っているのを最近聞いた。自身が歴史上の有名な絵画や写真になりきる理由に触れて、森村は高野豆腐などの乾物を例に説明していた。車を運転し、さらに会話をしながら聞いていたので、もしかすると正確ではないかもしれないが、おおむね次のような話だった。
高野豆腐は、乾燥したまでは食べられない。水で戻し、だし汁で煮込むとおいしく食べられる。当然、だし汁はいいほうがいい。いいだし汁で煮ると、おいしさがぐんと増す。自分は、たとえて言うなら、いいだし汁になりたい。オリジナルの魅力を再びよみがえらせ、そしてできればなおいっそう生き生きと輝かせることのできるだし汁に――。
ユーモアのセンスにもあふれる森村らしい説明だ。大阪生まれの森村は、自身のなかに"お笑い"が息づいているとも言っていた。若いころはそんな自分がいやだったが、いつしかそれは自身の個性や特徴であって、強力な武器にもなると気づいていからは、アートのなかに"お笑い"が顔をのぞかせてもまったく気にしなくなった、とも言っていたように思う。それはともかく、高野豆腐のように見慣れ、ありふれ、乾燥したままでは文字通り無味乾燥でしかないものも、料理次第で見事に変身する。無味乾燥という点ではまったく引けを取らないバーコードだって、変身するだろう。
■多様なメッセージや拮抗、コントラスト、そして融和
現実と非現実、作家自身の言葉を借りれば、「自然の摂理が支配する実世界」と「単純化と美で秩序化しようとする人間の欲求により作り出された非現実的世界」を、なるほどスー・グリアソンはあらわにする。でも、そう単純に図式化されているわけではない。自然と対峙する人間の思い上がりへの警鐘が打ち鳴らされているように、本物と偽物が対比されているように、あるいは万象を支配しているはずの理法にかなえば、必ずしも非現実的世界とは言いきれないように、描かれるメッセージや拮抗、コントラスト、あるいは融和は、多様だ。
作家自身の言葉を、改めて思い起こそう。「どちらかがどちらかより優れていると言いたいのではありません。そのふたつの世界があることを作品を通して明確に認識していただきたいと願っています」。主たる関心には違いない「ふたつの世界」は、ところが文字通り「ふたつ」ではない。潜在的に多義的な側面を内包し、また見る側の積極的な参加で、あるいは批評的な視線にさらされて、さまざまな色彩を帯びる。
すでに紹介した横浜美術館アートギャラリー企画「スー・グリアソン展」での文章に、次のような一節があったことも改めて思い起こしてみたい。「断片的なイメージを集め、再構成することによって、彼女は、見るという行為が持つ多面性を示そうとするのです」。そう、多面性――。「ふたつの世界」に刻まれる陰影や濃淡も、どうやら複雑なグラデーションに彩られているようだ。
そのように思いめぐらしながら、でもやっぱり作家の関心の矛先は現実と非現実、なかでも「自然の摂理が支配する実世界」へ向いているのかなあと実感させてくれる作品が、今回の展覧会ではそこかしこに点在する。もっと正確に言うと、「自然の摂理が支配する実世界」を見る側に強く意識させることで、パラドキシカルに「単純化と美で秩序化しようとする人間の欲求により作り出された非現実的世界」を思い起こさせ、さまざまなイマジネーションへと誘う作品が、ポラリス周辺の自然のなかにいくつも置かれている。
それらの作品は、ともすれば見過ごしてしまいそうなほど小さい。縦横十数センチほどの小さなカードに、短い言葉が書き添えられ、ポラリス周辺の山道に沿って、ところどころに置かれている。歩きながら、ふとカードを見つけ、腰をおろして言葉を読む。そこには、日本語と英語が併記され、たとえばこのような言葉が書かれている。「耳をすまし Listen very very hard」。
カードの作品のクローズアップ
言葉に誘われ、耳をすましてみる。静寂、風のささやき、時折どこか遠くで聞こえるだれかの話し声、鳥のさえずり......。自然の真っただ中にいることを、改めて思う。ここでは、作品はきっかけに過ぎないだろう。自然との、そしてパラドキシカルに日頃の喧騒との対話が、そこから始まる。もっと言えば、始まらないかもしれない。言い古された言葉をもじれば、作品は「世界に開かれた窓」、つまり開かれているだけのことなのだから。
こうした自然親和的な様相からは、自然とのコミュニケーションを強く意識する作家の態度がうかがわれる。「自然をより深く知り、より適切に自然とつきあっていくためには、自然をあるがままの姿で受け入れること――人間が自然に対して求めている姿をそこに見るのではなく――が、重要だと私は確信します」。自身が書いた作品解説のなかで、作家はそう述べている。自然をあるがままの姿で受け入れる――。小さなカードの作品が描きだす世界がいみじくもそうであるように、この思いは作家の仕事に通底する姿勢であるだろう。
■「真夜中の冷厳な冬の天空に瞬く北極星」へ
展覧会場となっているポラリスについて、改めて若干触れておきたい。すでに紹介したように、ポラリスは2003年6月、作家でもある十倉宗晴によって創設された。創設の際の設立趣旨には、十倉の言葉でこうある。「真夜中の冷厳な冬の天空に瞬く北極星 1000光年の彼方から発せられた光が今この北鎌倉に届く 古の時から大海に浮かぶ小船の船乗りに 深い雪に覆われた大地を彷徨う時旅人に 常に確かに北の方角を示し導いてきたポラリス その距離と方角を失わないようにと設立された それがポラリス☆ジ・アートステージです」。
必ずしも理想的とは言えない、むしろ不安や矛盾、危険など歓迎したくない、不愉快なことの少なくないこの社会で、アートを通してあえて理想を、夢を、歩んでゆく方向を見つめ、考えてゆこうというのだろう。26回目となった今回の企画展は、ECHOプロジェクトがポラリスとともに主催している。このECHOプロジェクトについても、少し触れておきたい。
ECHOプロジェクトは、そのホームページによると、展覧会を通じて知り合った作家の本田真理子、丸山芳子、エサシトモコの3人が企画、運営するプロジェクトで、「海外作家との交流のなかで、互いの類似や差異を理解し認めたうえでのコミュニケーションの重要性を実感し、現代世界に漂う不信感や無力感に対して私たち表現者ができることとして、現代美術を通した国際交流活動を開始」したのだそうだ。
具体的には、海外から作家を招いて滞在してもらいながら展覧会やワークショップなどを開催し、観客とともに時間や体験をさまざまに共有している。今回のスー・グリアソン展で、プロジェクトは6回目を数える。ポラリスと同様、根気強い、着実な歩みのなかに、「真夜中の冷厳な冬の天空に瞬く北極星」にも似た輝きを照らし続けてほしいと願う。
*写真はすべて筆者撮影