2010年卒業制作展
2010卒展雑感
東京五美大連合、東京工芸大学、ムサ美80周年展など
文●松浦良介 webてんぴょう編集長
2010卒展雑感
東京五美大連合、東京工芸大学、ムサ美80周年展など
文●松浦良介 webてんぴょう編集長
■なにもないのか、なんでもあるのか
卒展というのは、最近の美術の流行を知るにはてっとり早い展覧会だ。学生たちが在学中に憧れたり、影響を受けた美術家や美術の動向を如実に作品に表現してくるからだ。近年では、絵画ではリヒターの影響、そして映像。さらにアニメ、漫画。過去のものになったと思われた人間を描くというテーマは、写真や映像と絵画の間にゆらぎ、そしてキャラクターを生み出す、ということに生まれ変わった。
影響を受けたものが作品に表れるということは、決して悪いことではなくむしろ良いことである。美術の世界に身を投じ、その世界の現在と過去を観察し学んで、そして自分が表現したいことと絡め合わせることは表現者として当然であるし、オリジナルというものはそこからしか生まれない。
しかし、今年にはそういったものは私には見られなかった。絵画、彫刻、版画、写真などすべてにおいてだ。具体やもの派という国際的に知られる日本の現代美術の代表格と言われているものでさえ、その動向と美術家たちも含めて現在の学生にはほぼ忘れ去られつつあるという状態では、彼らにとって自分を取り巻く環境、自分が生涯身をおくであろう世界の歴史を観察、勉強することは無意味になってしまっているかもしれない(美術家だけでなく御三家といわれた東野芳明、中原佑介、針生一郎という美術論家たちについても同様であろう)。
もちろん個々の作品については、注目すべきものはあった。いや、ものすごい数が毎年出品されるのだからそういった作品はあって当然だろう。また、教授と学生がそれぞれのテーマのもとにチームを組んで展示を行った「武蔵野美術大学80周年記念大学院修了展ムサパチ」、実用化、企業へのアプローチをはっきりと意識している東京工芸大学デザイン学科の作品は見応えがあった。
映像作品、抽象表現は激減したが、一見すれば展示会場は華やかだ。しかし、ただ個々がぽつんと浮遊しているような状態に見えてしまった。この根っこにはいったい何があるのだろか。ざっと考えただけで美術の大きな流れを生み出す美術館の力の低下、すでに日本の美術は欧米の美術を云々といったレベルではない・・・などなど。
■歴史感覚の欠如
不景気が長く叫ばれる中、新たにオープンする画廊が多数だ。その多くは20代の美術家を学生の時にピックアップし、その画廊専属として展開していこうというもの。20代前半の美術家たちも、まずは専属で扱ってほしい、とオーナーに要求することも少なくないという。
前述したように彼らを刺激する大きな美術の流れがない中、唯一明らかに存在する現実は、乱暴な言い方ではあるが、やりようによっては美術もすぐ金になる、ということだ。「やりよう」というのは、現在の日本現代美術の好況を支える海外市場の要求に応えるということだ。
その結果、美術家、またはその志望者までもがそのような視点を持ちすぎてしまっていないだろうか。それによって、ただひたすら現在のみに固執してしまい、自分が存在している世界の歴史に対して無視、あるいは無関心になってしまっているのかもしれない。
歴史を知るということは、自分のしていることが過去へつながっていることを知り、それが未来へ伸びていく可能性を知ることだ。それがなされてない表現は、ただ現状なかで孤立し、どこかへ流されていってしまうだろう。喧噪のなかで試行錯誤して守り抜く孤立でなく、ただ無策無為にしているだけの孤立。今年の卒展を見て、そんな危機感を感じてしまったのである。