〈第53回ベネツィア・ビエンナーレ〉その1
圧巻のやなぎみわ、そして交錯する生と死、希望と不安
文●石川健次(東京工芸大学芸術学部准教授)
圧巻のやなぎみわ、そして交錯する生と死、希望と不安
文●石川健次(東京工芸大学芸術学部准教授)
■秀逸だった日本館
イタリアのヴェネツィアで、第53回ベネツィア・ビエンナーレが開催中だ。開幕直後にあわただしく駆け回った以前とは異なり、比較的ゆっくり時間がとれた今回、メーン会場のジャルディーニやアルセナーレをはじめ、市内各所に点在する各国パビリオン、同じく随所で開催される並行(関連)展を含めて、少なくとも会場で手渡される公式マップに掲載されている100カ所近くはあろうかという展覧会場を、すべて回ろうと意気込んだ。だが、広範囲に点在する各会場を探し当てるだけでも一苦労で、たかだか1週間程度の滞在では、かえって悔いを残す結果となった。以下は、久しぶりに訪れたヴェネツィア・ビエンナーレのレポート(おしゃべり?)である。
訪れたのは、開幕から1カ月近くが過ぎた6月下旬だ。以前訪れた際には、新聞社に在職していたため、開幕直後に急いで訪れ、めぼしい展示を駆け足で回って帰国、バッグの荷物もそのままに報告記事を新聞に、という文字通りのあわただしさだった。最新のアートを心から楽しむゆとりも、もちろんゴンドラに揺られる時間もなかった。
だが、幸いにも今回、比較的ゆっくり時間がとれたので、冒頭にも紹介したようにすべての会場を見て回ろうとなどと、今思えばはなから無謀な計画をもくろんだ次第である。
なにせ、たかだか1週間である。ゆっくりとは言っても、せいぜい2、3日多いくらいでしかない。私にとっては贅沢な1週間でも、それですべてを見て回れるほどビエンナーレは甘くなかった。会場は、ヴェネツィア市内の広域にわたって点在しているのだ。そのうえ、食事もすれば、おみやげだって買う。風光明媚な景色に囲まれ、ボーッとした時間だって過ごしたい。チケット購入時に受け取った公式マップに掲載された100近い会場のうち、結局、見て回れたのはざっと7、8割だろうか。
むしろ、時間をゆっくり使えたなあと実感できたのは、映像作品をじっくり見ることができたことだ。普段、今回ほど長々と映像と向き合っていたことはなかったように思う。時間に追われていたり、つまらない作品に退屈を覚えたり(こっちの方が圧倒的に多い......)、で早々と切り上げてしまうことが多い。ところが今回は、遠いヴェネツィアでのことだ。電車の時間も、約束も、締め切りも、何もない。疲れをいやすつもりで、うとうとしたことすらあった。それこそ、本当の贅沢というものかもしれない。
ジャルディーニやアルセナーレはもちろん、ジャルディーニにパビリオンを持たない国々が市内各所にスペースを借りて、急ごしらえのパビリオンに仕立てた即席パビリオン、並行展示と称される関連展など公式の展示に加え、どう見てもマップには掲載されていないにもかかわらず、ビエンナーレのポスターが張られていたり、まるで関連展であるかのような装いがほどこされた、おそらくは非公式な展示も、かなりあったように思う。1週間歩き通しで、本当に疲れた。心地いい疲れだったのは、言うまでもないが......。
さて、肝心の作品だが、気になった作品、印象に残った作品を、順を追って紹介してゆこう。まずは各国のパビリオンが並ぶジャルディーニから。何と言っても秀逸だったのは、ほかならぬ日本館だ。出品作家は、やなぎみわ(神戸市生まれ)。初めてやなぎの作品に触れたのは、確か≪エレベーターガール≫だったと思う。ちょっと卑猥で、お行儀のよくないエレベーターガールがさまざまな肢体をさらけ出す写真は、僕自身のなかにも眠っている欲望を見透かされたような気がして勝手に不愉快になっていた。一方では、無菌室で繰り広げられる無言劇のように淡々としていて、可もなく不可もないドラマを見ているようなニュートラルな気分にひきずられるまま、作家への関心も希薄になっていった気がする.
その後、≪マイ・グランドマザーズ≫や≪フェアリーテール≫あたりになると、状況設定やシチュエーション、それらの作品のイメージの源泉に興味を誘われたりもしたけれど、どこか人工的で過剰なつくりものみたいな風情に、個人的にはちょっと......という思いがしていた。でも、やなぎの実力は、僕なんかの予想をはるかに超えていることを、ビエンナーレの作品は明確に語っている。なにせ、会場に入るより前から、ドキリとさせられた。早大教授や日本建築学会会長を歴任した建築家、吉阪隆正が設計した瀟洒な日本館は、黒い不気味な巨大テントにおおわれ、誤解を恐れずに言えば怪奇な屋敷へと変貌させられていた。「ここで何が始まるのか......」。会場に足を踏み入れるより前、すでに僕の心臓は鼓動を速めた。
会場内には巨大な写真が5点、それぞれにはつくりものの大きな乳房を揺らす半裸の女性、それも未開人というか、原始人というのか、太古の女性らしい異様な姿の女性が雄々しく立ちはだかっている。どうも踊り狂っているようにも見える。そして会場奥には、日本館の建物をおおっていた黒テントのミニチュアとも言えそうな小ぶりの黒テントが張られ、中を覗き込むと映像作品が流れている。写真に登場していた女性が、ここにも登場する。どこからともなく現れ、踊り狂い、またどこへともなく去ってゆく。
ゴーギャンの傑作を思い浮かべた。《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》。ゴーギャンの晩年を彩り、集大成とも言えるこの作品が今夏、日本で初公開される(7月3日~9月23日/東京国立近代美術館)。帰国したら、すぐ見に行こうと思っていた。ゴーギャンの傑作が暗示する人間の生死の物語、たとえばそれに似た思いへと、やなぎの映像は見る側を連れ出す。さらに言えば、ゴーギャンがその傑作に、先立った長女の再生への思いを込めたとすれば、やなぎの作品は、命をはぐくみ、つなげてゆく女性の神秘、永遠に続くはずの生命の物語のようでいて、実は充満する不気味さや異様な道具立てに破滅や終末へと見る側の心をかきたてる。
圧倒的な存在感、具体的に語りかけてくるのではないにもかかわらず、何か確信的なものを、あるいはそこへ肉迫してゆく迫力、さらに建物と写真、映像という三位一体の総合的なアプローチによる効果的な演出など、どれも圧巻だ。とりわけ、写真や映像に加え、日本館全体を不可分な要素へとダイナミックに作品化した冒険心と力量、手際は、品行方正におさまる展示が多いなか、より刺激的で秀逸だ。それまでのやなぎの作品に抱いていた過剰なつくりものの風情という点では、むしろ今回もそう言えるかもしれない。けれども、それは今回、鼻につかない。自然と受け入れ、浸り、その作品世界を遊よくする自分に気づく。
あまりに独創的な世界であるがゆえに、分からないまま強引にその作品世界に引き込まれると、凡庸な私などはいったんは警戒してしまうか、食わず嫌いにも似た気分に陥ってしまいがちになることがある。歴史にかんがみて、そのような轍を踏まないように心しているが、気づかないうちに保守的な態度を取っていることは少なくない。
変化に富んだ作品に出合うと、人は多かれ少なかれ、そんな反応を示すものかもしれない。やなぎに対して抱いていた思いも、案外そのようなものだったのかもしれない。だが、その思いは、氷解した。
やなぎみわ作品 撮影:石川健次
やなぎみわ作品 撮影:石川健次