〈ヤン・シャオミン展〉
人間が創り上げる文化に対する自己への探究
文●宮田徹也(日本近代美術史)
人間が創り上げる文化に対する自己への探究
文●宮田徹也(日本近代美術史)
ヤン・シャオミンの描く《若者》が時期を経て抽象化が進み、《建物》は奥行きを失う。ここから現代社会の問題を導き出す論者も数多くいるだろう。ヤンは中国出身の作家であり、日本において主に日本画の材料を用いて《若者》と《建物》を主題として描いていることは既に知られている。しかし描かれているのは何処の《若者》と《建物》なのか、それは本当に《若者》と《建物》なのかという問題は考察されていない。そして私が問いたいのは、ヤン自身の問題である。
ヤンにとって最も重要な事項とは「外の世界を知り、自身の存在の意味を問うこと」「キャンバスの中で真実を語ること」(〈今日の作家展2004〉カタログ 横浜市民ギャラリー)である。この言葉を考慮に入れると、ヤンの画風の変化は社会的動向ではなく、自身の追究の果てであると解釈することができる。
では、何故「外の世界」が《若者》と《建物》なのか。ヤンが名付けている《若者》とは何処の若者かという議論よりも[人間]である、《建物》はそういった人間が創り上げた[文化]である、と視野を広めたい。さすればヤンの興味である「自身の存在の意味」の探究、即ち現在の此処に対して向き合う厳しい姿勢を読み取ることができるのである。ヤンは「キャンバス」の中での真実のためには、どのような材料を用いることも禁じ得ない。そのために選定したのが使用している画材であり、それが日本画のそれと呼ばれることには戸惑いもあるかも知れない。
このような思考でヤン・シャオミン展(香染画廊 2008年9月27日~10月25日)に向き合うと、《若者2008》はこれまでで最大のサイズを持つ代わりに、以前まであった木枠の厚みは姿を消している。若者が抽象化されることよりも、背景の処理に眼を凝らしたい。これまでの何処でもない場所から光と影による明暗、それに伴う遠近法の世界からキュビスム的多角方向の視点は、今回ではゲシュタルトの喪失に変化している。これは《都市空間》も同様であり、オールオーヴァーな画面の追求を目指していると解釈することができるのではないだろうか。共に曖昧な形、不要な要素を一切排除し、構成主義に迫るほどの堅強な構図を創り上げている。これはキャンバス上の問題だけではなく、ヤンが自己に向ける自戒の強固さをも表しているのではないだろうか。
「2008 若者」
「都市空間」
*ヤン・シャオミン展(香染画廊 2008年9月27日~10月25日)