タカ・イシイギャラリーは、1月14日(土)から2月4日(土)まで、グループ展「日本のシュルレアリスム写真」を開催いたします。本展では、日本写真史において長らく傍系と見做されていた「前衛写真」の水脈に焦点を当て、その多彩な展開の一端として、中山岩太、岡上淑子、椎原治、山本悍右、安井仲治の作品計28点を展示します。
1930年、『フォトタイムス』の編集主幹であった木村専一らによって西欧写真の新潮流が紹介されると、絵画の模倣としての写真から脱却すべく、スナップショットやクロースアップ、フォトグラムやフォト・モンタージュといった表現技法を取り入れた新興写真が成立し全国に広がりました。そのピークを象徴する写真雑誌『光画』の創刊(1932年)に携わった中山岩太は、「写真の美しさ、写真の持つ味を、根本的に分解」することでモダニスム写真を希求し、幻想的なフォト・モンタージュや耽美的なポートレイトを制作します。「デツチあげても、美しいものに作りあげたい」と語ったその反自然主義的写真観は、自然であることを倫理的価値としてきた日本の芸術写真風土とは一線を画すものでした。1930年代後半、新興写真はその社会性を追求する報道写真と、モダニスム的性格を徹底させた前衛写真へと分化します。1930年より詩作を始めた山本悍右は、前衛写真成立の動きに先駆け、1931年に「シュルレアリスムの写真における実践」を目指し写真制作を開始し、その鋭い社会批評の眼と独自の詩的な感性から生み出される作品は、西欧のシュルレアリストの図像学と日本的なモチーフや関心の見事な調和を示しています。
日本におけるシュルレアリスムは、アンドレ・ブルトンの『超現実主義宣言・溶ける魚』(1924年)を端緒にもたらされるものの、その解釈と受容の過程で、自由獲得や無意識の解放を目指した本来の思想とは異なる独自の特徴をもって浸透しました。写真の領域でも、破綻を露呈した合理主義社会に対し人間性の恢復・奪還を目指す、というシュルレアリスム運動の成立由来は薄まり、表現形式や様式を新興写真のテクニックと結び付けて作品化する形で前衛写真が興ったのち各地で新たなグループが結成されます。その隆盛が顕著にみられた関西では、浪華写真倶楽部や丹平写真倶楽部など、アマチュア写真家集団が新興写真の拠点となりました。東京の写真家たちが一早く写真家の社会的機能を自覚し報道写真へと移行したのに対し、関西では引き続き表現上の実験が追求されます。東京の前衛拠点を語る上では欠かすことのできない、滝口修造を始めとした理論的指導者の不在も、制作を楽しむための材料として前衛概念を捉える緩やかな環境をもたらしたと考えられ、結果としてシュルレアリスムの言葉のもとで一括りに語ることのできない多様な活動が展開されました。浪華、丹平双方の中心メンバーとして同時代の写真表現の最前線を切り拓いた安井仲治は、新興写真の技法を積極的に取り入れながらも、写真それ自体の表現媒体としての可能性を模索しました。また、丹平写真倶楽部の写真家6名による共同作品「流氓ユダヤ」(1941年)には、現実社会を直視し記録する厳しい眼差しがうかがえます。同じく丹平写真倶楽部に属していた椎原治は、戦時下の体制に日本社会が組み込まれていく時期にあって、時代の重苦しい空気を反映したとも言えるシュルレアリスム的表現の噴出とはやや異なる立場を取り、自身のアカデミックなルーツに由来する優れた画面構成力を誇る作品を制作しています。
1950年代に彗星のように芸術界に現れた岡上淑子のフォト・コラージュは、物資の不足に由来する欠乏感と解放・自由の気運という両側面によって象られる日本の復興期を背景に、作家、ひいては女性の心の襞を象徴的に表現しています。1953年の初個展に際し、滝口修造が親しみを込めて「岡上さんは画家ではありません。若いお嬢さんです。」と寄せているように、明確な作家意識を持たなかった岡上が、当時の芸術動向や芸術界に与することなく、心赴くままに創作し紡ぎだしたイメージは、純粋な意味でのオートマティスムに溢れていると言えます。
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