児玉画廊では7月9日(土)より8月12日(金)まで、ignore your perspective 34「風景の空間」を下記の通り開催する運びとなりました。大谷透、太中ゆうき、貴志真生也、関口正浩、中川トラヲ、和田真由子の6名の作家を、「風景」というキーワードから新たに読み解くことを企図するものです。ここでいう「風景」とは、いわゆる景色や景観を指す一般的な意義のみならず、作品制作の一態度を表す特殊な意味を含ませています。「『風景』の作家とそうでない作家がいる」、出展作家の一人である大谷透のこの発言に今回の展覧会は端を発します。大谷の弁を要約すると以下のようになります。
大別して、一つの作品に対して制作上の全てのベクトルが一本に収束している作家と、一つの作品の中に多義性があるという逆のタイプの作家があり、一個の作品で何かたくさんのことを言おうとしている、あるいは、結果的に言えてしまっている作家を「風景」の作家と言いたい。例えばモランディのように静物画であっても風景画のような現象がそこに立ち現れてくることが感じられる作品。空間の状況に合わせて構成していく間に様々な要素が入り乱れて複合的な状態になりながらも一つの総体としてのまとまりを掴んでいくインスタレーション作品。山や川、空気や光、様々な要素が相互/複合的に関係しながら一つの景色を形作っているように、実際の言葉の意味としての「風景」とは違っていても、そこに何某かの複合的な現象が起こっているからには、それを「風景」と呼びたい。
つまり、作品のプレゼンスとして、鑑賞者と制作者の見るものが同じである場合は「風景」とは分類されず、多面的な解釈や意義を含む作品を「風景」とみなす、ということになります。作品そのものよりもむしろ、各作家の制作のプロセスに関わる態度(アティテュード)に大きな違いがあるものと思われます。制作のプロセスにおいて、完成形があらかじめ見定められている場合や、その作品によって表現すべき事象が明瞭かつ端的に示される場合は、作品の容態がどうであれ、そこで表現されるべき事象はただ一つなのです。反面、今ここで「風景」として提示しようとしている作家においては、作品の容態がどうであれ、そこから我々が感受するべき事象は多岐にわたるのです。
大谷 透
サンドペーパーや石膏ボードの裏側にあるロゴマーク、商品パッケージやトランプの柄など、既存の図案やイメージを基に、加筆や修正を加えていくことで全く別の要素を挟み込んでいく。ファウンド・オブジェクトやレディ・メイドとするにはあまりに作家の手が入り過ぎ、かといって既存のイメージは打ち消されることなく作品内に依然大きな存在感を残す。きっかけとなる何か(物あるいは図案やデザイン)がまず最初にあり、その次に、作品の内容よりも行為(パーツを組み替えたり、色鉛筆で一部を塗りつぶすなど)が先に始まる。それによって、次第に行為が行為を生み、結果として作品が出来上がっていく。
太中ゆうき(初紹介)
絵画を制作するにあたり、まず何かのアイデアが先にある。ペインティングであるけれども、具象的なモチーフや抽象的なイメージがあってのことではなく、例えば「棒のような線描を雨に見たてる」、というような絵画に取り掛かる第一歩目のための指標があり、そのために必要な条件を満たすように描きながら次の目的を見つけ出し、さらにその目的と目的の関係性を上手く取り持つように筆を進めていく。絵画構成の全体はそのプロセスの中で漸次的に決定されていく。
貴志真生也
物というよりも何らかの状態を彫刻するような彫刻/インスタレーション作品を制作。オブジェクトとして静的な性格ではなく、何か動的な、システムのようなものを内包し、それを鑑賞者に予感させるような思わせぶりな構造がユニークさを際立たせる。独特のユニット構造や素材感を剥き出しに見せることで、いかにも情緒美的な外観ではなく、機能美や構造美を主眼とした作品のようでいて、果たしてその機能とは、その構造とは、と鑑賞者が目を追って行けば行くほどに煙に巻かれる。「Aという猫が、ある人の家ではペットとしてふるまい、また別のある家では害獣として振る舞うような正体の無さ。しかしその正体のない存在自体がまさに正体であるかのような立ち位置。」(本展覧会作品制作に向けてのステートメントより抜粋。)
関口正浩
絵具を塗り広げて乾燥させた皮膜状のものをキャンバスに貼り付ける、というコラージュあるいは切り絵様の手法によって絵画表現を行っている。「絵筆で描く」というおそらく最も絵画的な行為の排除でありながらも、絵画的なものに留まり続ける為の様々な試行錯誤。色の皮膜によって描くという手法は、マティス晩年の切り絵に見られるように、線描を不要とし色彩そのものによって絵画を成立させることを可能にしている。さらに、絵筆では決して表現し得ない皮膜としての肌理や質感をストロークに置き換え、紙や布のように折り返したり皺を重ねたり、破れや膨らみをも利用することで、過去先達によっても様々に試みられてきた平面性に対する新たな糸口を改めて示し直している。完成された絵画面は、時に、作家の思い描いた理想に反して皮膜の貼り付け時における偶発的な歪みやズレなど、「思うようにならなかったこと」が結果としてそのままに提示されることで、「こうあるべき」絵画の理想形と「そうならずとも」絵画であるという関口の主張、双方に思いを巡らせる契機を鑑賞者に与えている。
中川トラヲ
抽象とも具象ともつかない画面構成で、対峙する人によって見えているものが全く異なるなど、視覚とは何か、という問いを強く訴えかけてくるような絵画作品を制作している。制作者である作家にとっても、絵の起点は偶発的なもので、例えばたまたまキャンバス上についた絵具の飛沫や窓から射す光が作る陰影、木製パネルの木目など、それらをルーズにトレースしていく内に連鎖的に線や色彩が重ねられ、上書き更新されていくように、半ば自発的に絵画が制作されていく。線描が線描を生み、色彩が色彩を生むのであって、「中川トラヲ」という行為の主体は一旦蚊帳の外に置かれている。何かを目で見て描く、のではなく、例えばトレースする手の動きやそこに描かれていく線描の流れの中から流動的に次のアクションが決定されていく。見えてはいる、けれども認識する前に絵が導き出されていく、それは脳の視覚野の認識外にある景色を画面に収めていくことに他ならない。
和田真由子
頭の中に描くイメージが全ての作品の準拠であり、絵画とはその「イメージにボディを与える」(具体的な造形を与える)ことである、という論に基づいて首尾一貫した制作をしている。頭の中で和田が見ているイメージの(具体性の)強弱に、フォーム、メディウム、プレゼンテーションの強弱が従う。可能不可能は別として、極論では「見えない」とイメージしたものは「見えない素材」で「見えないなり」の提示方法へと置き換えられるべき、というもの。和田自身は絵画的な視覚認識、空間認識をベースとしているため、例えば建物のような空間をイメージした場合、三次元的な構造ではなく透視図法や射投影の理論に頼って想起することになるが、和田にとってそれは厳然たる「建物」であり、他者から見れば単なる平面上の射投影図であっても、レイヤー化された透明素材で内部構造をスケルトン状に明示して描くことでその証明としている。結果として、一般的な絵画の絵画らしさからは作家の意に反して離れていく、絵画、あるいは平面性についての独自の帰納法的証明。
"ignore your perspective" という大命題において、新たなる視野を開拓し、先鋭のさらなる先を見定めるべく、今回は「風景」つまり、作家の逡巡から立ち現れる現象に「空間」を与えること、そこには計り知れないほどの再認識と再発見が潜んでいるに違いないのです。
〒108-0072 東京都港区白金3-1-15-1F
TEL: 03-5449-1559