新ギャラリーのオープニング展として、7月30日(木)から9月12日(土)まで 本城直季の個展を開催いたします。
写真の中の山林の間に引っ掻き傷のように現れる道路。山に同じ種類の木が整然と並んでいるのは人工的に植林されたからだ、と本城直季は教えてくれた。しかし、それらは指摘されないとわからないほど自然そのものの風景だ。新作はこの自然と人工の判別のつかない中間領域をどのように写し、その写真によって何を鑑賞者に伝えるか、という本城の新しい挑戦である。
すべての写真は記録だ。本城の写真が記録しているのは風景だけでなく、本城と被写体の間の物理的、そして心理的な距離である。2008年に本城は空撮を始めた。上空から全てを見渡す非日常的な視点は、地上でおこなわれている人間の営みを他者のものとして観察することを可能にする。つまり、本城の写真は、本城の観察者としての立場の記録でもある。
砂漠の中に建設された摩天楼、ラスベガス。スポットライトが降り注ぐ舞台の上で、鮮やかな色の衣装をまとった役者が夢物語を紡ぐ宝塚。本城はこれまでこうした風景の虚構性を敢えて強調するアオリの技術を用いてこれらを撮影してきた。結果、彼の写真の中の風景はどれもミニチュアの模型のようであり、人間の夢や欲望が創り出した人工的な風景が本質的に脆いものであることを示唆する。この示唆によって、本城の写真はこのような風景を生んだ人間の営みへの愛しい感情を鑑賞者の中に喚起する。要するに、本城の写真には鑑賞者の感情をある特定の方向に向ける指示性があったといえよう。
「あった」と過去形にしたのは、本城の新作が明らかに彼の旧作と一線を画しているからである。新作では画面全体を錆色や緑青色の山林が占め、旧作の中で重要なアクセントとして機能していた瑞々しい赤やピンクといった暖色のモチーフは消えている。人間も写っていない。上空から見る山林の表面だけがフレーミングされているため、その写真は一見苔や藻を接写したようでもある。旧作では特定できたフォーカスが新作では曖昧で分散されているため、いったい何を被写体にしているのか判然とせず、抽象的でオールオーバーな画面が成立している。
抽象とは、物事を表現する際の思考のプロセスであり、そのプロセスを経た表現においては具体的な情報は差し引かれる。そのため、鑑賞者が抽象的な表現に向かい合うときには、その表現の中にある情報を読み取るのではなく、目の前にある抽象表現に対して鑑賞者自身の想像力や思考を投影することを余儀なくされる。旧作にあったような具体性、指示性を放棄することで、本城は鑑賞者の即時的な判断や感情的な反応ではなく、思考での応答を求めているようだ。このことは、本城が自分の写真が人々にもたらす作用についてより意識するようになったこと ------ つまり、観察者としてのフォトグラファーからイメージメイカーとしてのフォトグラファーへと自覚的になったことを意味しているのである。
高橋瑞木(水戸芸術館現代美術センター 主任学芸員)
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