identity, body it.
"Identity"展のゲストキュレーターとして指名していただいたとき、私はとっさに、女性の作家だけで展覧会を構成したいと思った。なぜ今回私が、女性の作家の作品を紹介したい(自分自身が見たい)と思ったのか。実のところ、私にもわからないでいる。
"identity"というテーマ自体は、とりたてて新しいものではない。1970年代頃から映像撮影機器が安価になり、アーティストがそのレンズを自身自身に向け始めた頃から、どれだけ多くの「私(me)」が語られてきたことか。
そこで問題になったのは、往々にして「私」が「誰」であるか、であった。とりわけ1980年代後半からポストモダンの言説が飛び交う中、芸術の世界では「小さな声」に耳を傾けることに血道をあげているうちに、作品そのものでなく、作品に添えられたキャプション(情報)を覗き込む習性が身についてしまった。作家のバックグラウンドを通じて作品を見る習慣が、支配的になった時期があったように思う。
しかし、21世紀に入ってからの数年間の間に、この習慣の意味合いは薄れつつある。理由は単純だ。情報技術の急速な発達―ひらたく言ってしまえばインターネットの普及だが―によって、情報と、その情報の発信者のidentityの関係が不確かなものになってしまったからだ。ネットの掲示板、SNS、動画サイト、携帯小説、それらに添えられた「私」のデータが信じるに足りるのか、あるいは単一の人物であるかどうかも疑わしい。さらには、前世紀では聞く術もなかったほどの小さな声、例えば紛争や迫害の真只中にいる人々のテキストや動画までもアップロードされ、それを我々は無限に複製(コピー)することが出来る。
あと半世紀もすれば、ここ数年の情報技術の普及は、産業革命同様にひとつの歴史区分となるだろう。この時代区分以降、美術や演劇、ダンスといった「作品がある(行われる)場に居合わせる」ことに意義を持つ表現形態は、もっとも駆動力が低いと言わざるを得ない。しかし、それゆえに際立つのは、そこにある「作品」「行為」が間違いなく表現者自身の属性であることだ。
告白すれば、今回の出品者が女性であることは、私自身が男性であり、女性の属性に関心がある(言い換えれば、私自身のフィティシズムによる)ことは否めない。同時に、自身が自身の属性であると信じうる「身体」に向き合ってidentityを体現しようとする点で、私が彼女たちを尊敬していることも事実だ。
この時代において、Identityを体現せよ(The identity, body it on this time)。もはや、そこには「私」が「誰」であるか、という相対性は必要ない。「私」にとっての「私」という、複製され得ぬ場所から始まるのだ。
―東谷隆司(インディペンデント・キュレーター)
▼参加予定アーティスト▼
Janaina Tschäpe(ジャナイナ・チェッペ);ドイツ、Sarah Dolatabadi(サラ・ドラタバディ);イラン、Alice Anderson(アリス・アンダーソン);イギリス、Imhathai Suwattanasilp(イムハッタイ・スワッタナシルプ);タイ、Loukia Alavanou(ルキア・アラバノ);ギリシャ、Mari Katayama(片山真理);日本
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