1874年、モネやピサロといった若い画家たちが集まり、のちに印象派展と呼ばれる初めての展覧会を開催しました。光や大気の影 響を受けて刻々と表情を変える身近な光景に着目した彼らは、これを、明るく自由な筆致で生き生きと表現しました。
1880年代に入ると、印象派を扱う画商やコレクターも増え、その斬新な手法は、同時代の画家たちに決定的な影響を与えるように なります。
そして1886年、最後の印象派展である第8回展が開かれました。この展覧会は、ポスト印象派世代の登場を告げる重要な作品群を 含んでおり、一つの分岐点として重要な位置にあります。第1章では、モネ、ピサロ、ドガ、シスレーらの作品を通じて印象派の一つの到達点を確認します。
1886年の第8回印象派展には、ピサロの推薦を受けたスーラとシニャックが出品し、大きな話題を呼びました。印象派の筆触分割に感化された二人は、独自の点描技法を考案します。感覚を重視して描いた印象派とは対照的に、彼らは厳密な理論に基づいて色彩を配置しました。スーラが、光学や色彩学などの科学的 な知識を応用したことはよく知られています。その静謐な画面は、小さな点が生み出す無数の色彩のコントラストによって輝きを放ち、巧みなグラデーションの効果とともに、光がおりなす微妙なニュアンスをよく伝えています。シニャックは、1891年にスーラが夭逝した後、新印象主義の理論を広く世に普及させる ことにも貢献しました。
1874年の第1回印象派展、77年の第3回展に出品したセザンヌでしたが、やがて自らの進むべき方向との違いに気づき、エクス=アン=プロヴァンスで孤 独に制作に励むことになります。セザンヌが求めたのは、「堅固で永続的な」芸術でした。りんごや人物の表現に見られるヴォリューム感、堅牢に組み立てられた画面構成、平面的な筆触を重ねて生まれる独創的な空間表現など、その斬新な成果は、キュビスムや抽象絵画など、後世に多大な影響を及ぼすことになります。当時のセザンヌは、公には作品をほとんど発表していませんでした。しかし、ゴーギャン、ベルナール、ナビ派など、一部の若い画家たちに熱狂的に支持さ れ、まずは彼らの間にその影響は広がっていきました。
南仏の名門伯爵家に生まれたトゥールーズ=ロートレックは、思春期の大怪我がもとで足の成長が止まり、幼少の頃より才能を発揮していた画業に専念するよう になります。1882年にパリに出た画家は、大規模な歓楽街のあったモンマルトルに親しみ、賑々しい享楽の世界と、そこにたくましく生きる踊り子、娼婦、 芸人などを、ときに辛辣に、またときには深い共感をもって描くようになりました。そして、画風においても、心酔していた印象派の影響を次第に脱していきます。素早いスケッチ風の独自のスタイルは、虚飾の背後に潜む、人間の真の姿を露わにするかのような的確さを備えています。
フィンセント・ファン・ゴッホ 星降る夜 1888年 油彩・カンヴァス
ⒸRMN (Musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF
オランダ出身のゴッホは、最後の印象派展が開催された1886年にパリに出ました。すぐさま印象派に影響を受けた画家は、オラン ダ時代の暗い色調とは対照的な、明るい色彩と闊達な筆遣いで描き始めます。やがてゴッホは、その内面の嵐を表現するかのような、力強い筆致と激しい色彩による独特の画風を生み出しました。ゴッホとゴーギャンが共同生活を試み、悲劇的な破局を迎えたエピソードはよく知られています。
そのゴーギャンは、第4回展以降、つづけて印象派展に参加していましたが、単純で力強い色彩の装飾的な画面に、観念的な主題を描く独自のスタイルを確立します。文明に絶望し、未開文化の豊穣さに楽園を見出したゴーギャンは、その後タヒチに向かい、人間の本質を追求した数多くの傑作 を残しました。
ブルターニュ半島の小村、ポン=タヴェンに滞在していたゴーギャンは、平坦な色面に強い輪郭線というクロワゾニスムの手法で描いていた若きベルナールと出会います。そして、たちまち意気投合した二人は、総合主義と呼ばれる理論を打ち立てました。これは、クロワゾニスムに基づく力強い描法に、主観的な内容を 総合するというものでした。総合主義の理論は若い画家たちをひきつけ、この地に、ゴーギャンを中心としたポン=タヴェン派と呼ばれる一派を形成することに なります。平面的で装飾的な力強い画面構成と、豊かな精神性を宿した象徴主義的な志向は、ナビ派の登場にもつながりました。
1888年秋、ゴーギャンの指導のもと、セリュジエが一枚の風景画、《護符(タリスマン)》を仕上げます。抽象絵画のようにも見えるこの小さな作品は、自然の色の束縛から脱した大胆な色彩で描かれていました。これをきっかけに、セリュジエ、ドニ、ボナール、ヴュイヤールらは、ナビ派を結成します。ヘブライ 語で「預言者」を意味する「ナビ」というグループ名にも伺われるように、ナビ派は象徴主義的な精神土壌に根ざしていました。また、絵画を「ある一定の秩序 のもとに集められた色彩で覆われた平面」とするドニの有名な言葉や、日本の浮世絵に深く影響されたボナールの作品が示すように、平坦な色面を多用した装飾 的な画面に大きな特質があります。色彩そのものの喚起力を生かした描法は、後の絵画にも大きな影響を与えました。
ナビ派のボナールやヴュイヤールらは、身近な室内の情景を好んで描きました。親密で内面的(アンティーム)な雰囲気を強く漂わせるその画風は、アンティミスムと呼ばれています。題材は身近なものですが、ここにもまた、当時大きな影響力をもった象徴主義的な世界観が色濃く反映しています。象徴主義は、目に見えない観念や思想を表現しようと試みた点で、移ろいやすい外界の様相に着目した印象派と好対照です。たとえば、象徴主義を代表するモローは、神話や聖書を主題にした神秘的な画面に、深い精神性を表現しました。一方、アンティミスムの作品は、ナビ派に特有の造形的効果と、閉じた空間内での私的な物語を連想さ せる場面設定によって、見る者の感覚を直接揺さぶります。
アンリ・ルソー 戦争 1894頃 油彩・カンヴァス
ⒸRMN (Musée d'Orsay) / Droits réservés / distributed by AMF
パリ市の税関職員を長く勤めたルソーは、素朴派の代表的な画家です。独学で絵画を修めたルソーの作品は、シンプルで力強い表現力に満ちています。細部まで均質に描き込まれた画面、遠近法によらない独自の空間表現、独創的な色彩の対比やグラデーションなどは、伝統的な絵画技法とは大きく異なります。また、非常に謎めいた、ときに異国情緒豊かな主題によって、画面からは神秘的で象徴的な雰囲気が漂います。画家は、写真やイラストなどからイメージを借用して制作したことでも知られています。一見して稚拙な表現は批判の対象でもありましたが、ピカソやアポリネールに称賛されて次第に評判は高まり、20世紀の前衛絵 画にも大きな影響を与えました。
19世紀末から20世紀初頭にかけては、優美な曲線が美しいアール・ヌーボーが席巻した時代でもありました。イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に端 を発する、芸術と生活の融合を目指すデザイン革命は、画家たちの芸術観にも大きな変革をもたらしました。ナビ派の画家たちは、定期的に展覧会を開催して作品を発表しただけでなく、雑誌の挿絵やポスター、舞台芸術など、幅広い造形活動にかかわることで、芸術と生活を橋渡ししようと試みました。本章に出品されるボナールやヴュイヤールによる大型の作品は、注文を受けて制作された室内装飾画です。絵画と装飾にもまた、新たな関係が生み出されていることが分ります。
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