自身が山男であり、山の版画家としても敬愛された畦地梅太郎は、平成11年(1999)、96歳の長寿をまっとうして亡くなりました。明治35年(1902)、愛媛県の北宇和郡(現・三間町)に生を享けてから、20世紀いっぱいを生き抜いたことになります。
版画家としてのスタートは昭和の初期にさかのぼります。関東大震災後、師となる平塚運一(1895?1997)の手ほどきをうけて木版画の道に進むと、当時第一線で活躍していた先輩格の恩地孝四郎(1891?1955)、前川千帆(1888?1960)、川上澄生(1895?1972)らの薫陶も受けながら、創作版画への情熱を燃やし制作を続けました。また幸運な出会いとして、彼の彫る"木活字"が、詩人の室生犀星(1889?1962)に気に入られ、その著書の多くを飾ったことも戦前の貴重な仕事になりました。
昭和20年(1945)、太平洋戦争は敗戦で終りますが、翌年には日展、国画会展、日本版画協会展へ次々に出品します。戦争の惨禍と虚脱からの再生の叫びであり、自由な創作ができる平和の喜びでもありました。
昭和27年(1952)、国画会展に初めて"山男"の作品を出品すると、これがたいへん好意的に迎えられ、のちに"山男といえば畦地梅太郎"と言われるほどの人気シリーズに発展していきます。またこの頃から、『アルプ』など山の雑誌に彼の絵と随筆が連載され、山を思う語り口と人柄の滲む文章が読者の心をつかんで離さず、版画家に止まらず文筆家としての人気も高めたのでした。
畦地梅太郎の人生は、あまり俗塵に染まらず、独りわが道を行く生き方でした。しかし、決して孤高の人ではなく若い人の個展などには足繁く通って交流し、作品を買い上げるなど、さり気なく激励していたといいます。
晩年は、家族の愛情にも支えられ、穏やかな環境のなかで作品づくりをする幸福な時間に満たされていました。そしてその平安が、晩年の大作であり遺作ともなった「石鎚山」の制作に向わせました。それは、故郷の山岳の偉容と、それを見守る畦地梅太郎の山男としての心情が悠久の時間の流れのなかに投影され、まさに畦地版画の究極の到達を示しています。
畦地梅太郎 「頂上の小屋」 1967 木版画
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