ジャーナリストでもあり、アーティストでもあった。
花形プレス・カメラマンたちの、自由な表現に秘められたストーリー!
さまざまなプレス写真が氾濫し報道されていく現代、ふと1枚のプレス写真に大きく心を打たれることがあります。
何気ない日常の風景、誰も足を踏み入れていない地でのスクープ、時代を象徴する決定的瞬間など、情報を「伝えること」「記録すること」を超えて、普遍的な美を携えた写真は私たちの心をとらえて離しません。
この展覧会では、昭和の戦前・戦中・戦後の一時期に、作家性を強く意識した5人のプレス・カメラマンを中心に焦点をあてます。朝日新聞社を支え、花形プレス・カメラマンとして活躍した影山光洋・大束元・吉岡専造・船山克・秋元啓一をはじめとする写真家たち。
彼らは自社の仕事のみならず、他社の雑誌にも作家性を強く打ち出した作品を発表し、フリーの写真家たちと同じように自由な創作活動を行いました。
<新聞社に所属したスタッフ・カメラマン>という枠を越えて活躍できたという状況は非常に特殊で、彼らが朝日新聞と関わった時期がもっとも顕著であったといえるでしょう。
本展は、プレス写真の使命とは何なのかを考察しながら、彼らがどのようなシステムを背景に仕事をしたのか、自由な環境が豊かな表現を生み出すことができたのか、という問いかけをベースに検証します。
プレス・カメラマンの仕事を「フォトジャーナリズム」と「作家性」の観点から紹介し、平成20 年度に新たにコレクションに加わった影山・大束の当館初公開作品も含め、収蔵作品を中心に幅広く展覧します。
大束元 題不詳(女子プロレス) 1960年代頃
?プレス・カメラマンたちが背負うそれぞれのストーリーを追う!
本展では、プレス・カメラマンたちの、代表作品から任務として撮った写真まで、当館の収蔵作品を中心に幅広くご紹介します。
1942 年のシンガポール陥落に際し、山下・パーシバル会談の決定的瞬間を撮影した影山光洋は、たった5 歳で逝ったわが子の軌跡をアルバム『芋っ子ヨッチャンの一生』に綴り、見事な家族像を描写しました。
また無個性なニュース写真を撮る一方で、モンタージュを積極的に取り入れたユニークな作品を発表した大束元は、新聞紙上で「写真と文」をひとりで担当するというスタイルを確立した第一人者でもあります。
このように、いままであまり注目されることのなかったプレス・カメラマンたちひとりひとりが背負うそれぞれのストーリーを、豊富な作品を通してご紹介します。
?新聞社における写真部・出版写真部の役割を考える
新聞社が写真部をつくりカメラマンを独立した組織体制にしたのは昭和の初めで、朝日新聞はその先駆け(昭和4 年)でした。
それまで写真製版会社のカメラマンから写真を買っていた新聞社は、自社で優秀なカメラマンを持つことで、スピーディで専門性の高い写真取材ができるようになりました。
当時、プレス写真は新聞だけではなく、写真を紹介する中心的メディアであったグラフ誌(『アサヒグラフ』など)や週刊誌に広く掲載されました。
グラフ誌や週刊誌は新聞に比べ取材期間が長く、またテーマ性のあるシリーズ作品なども発表できたことから、彼らはより表現の幅を広げて写真を撮ることができたのです。
当時の新聞社における写真部・出版写真部の役割を紹介しながら、その重要性に迫ります。
?<特別展示>朝日新聞大阪本社「富士倉庫資料」など
今回は、朝日新聞大阪本社保管の通称「富士倉庫資料」を特別展示いたします。
その中には、影山光洋、大束元、吉岡専造が特派員として戦地に赴き、満州事変前後から敗戦までの間に撮影した写真が含まれています。
また、東京本社保管の資料には秋元啓一撮影のベトナム戦争の写真があり、ひときわ異彩を放っています。
初展示となるこれらオリジナル・プリントの数々を、どうぞじっくりとご鑑賞ください。
?歴史に残る当時の新聞・雑誌を多数展示!
展示では、写真作品のほかに、実際に掲載された当時の新聞や雑誌を多数展示します。
大束元・吉岡専造・船山克は『アサヒカメラ』誌に「新東京シリーズ」や「現代の感情」など優れた作品を次々に発表していきます。
大束は新聞社の写真が持つ「無名性」と、自分の表現にこだわった「作家性」について常に挑戦を重ねていきました。
その優れた作家性やアートディレクター的な感性を、実際の掲載紙を多数展示しながらご紹介します。
影山光洋 ヨッチャンさつま芋を肩に 「芋っ子ヨッチャンの一生」より
1948年11月
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