EXHIBITION | KYOTO
浜崎亮太(Ryota Hamasaki), 秋山珠里(Juri Akiyama)
「乞うより遅く、光より早く – 風も吹かず、なにもない。なにかがある。」
<会期> 2023年9月27日(水)- 10月30日(月)
<会場> MORI YU GALLERY
<営業時間> 12:00-18:00 月火休
*10/30 (月) は開廊いたします。
モリユウギャラリーは 9 月 27 日 ( 水 ) – 10 月 30 日 ( 月 ) まで、浜崎亮太・秋山珠里 の二人展 「乞うより遅く、光より早く ー 風も吹かず、なにもない。なにかがある。」を開催いたします。
2 人は語ります。
「オブジェクトよりもそれが成立する以前の時空、または空白やなにものかの間に潜むもの、ビッグバン以前の “ほぼなにもないような揺らぎ “を提示しようと試みる。」
2 人で話し合いつけれられたこの展覧会タイトルは詩的で、時間や存在への関心がみてとれます。2 人はそれぞれ異なる方法でこの問題にアプローチしています。
秋山珠里からみてみましょう。彼女は「勿体」という言葉を使います。辞書によれば、以下のように書いてあります。
「勿体」 は本来 「物体」 と書き、 和製漢語 「勿体 (もったい)」 を 「無し」 で否定した語。 勿体の 「重々しさ」 といった意味から、もったいないは 「妥当でない」 といった意味で用いられ、転じて、「自分には不相応である」、「ありがたい」 という意味へ広がっていった。
また、 「物の形」 「物のあるべき姿」 から派生し、 「本質的なもの」 となった。 さらに、 重々しい態度などの意味に派生し、 意味が離れてきたため 「物」 が省略され、 「勿」 という表記で和製漢語の 「勿体」 が生まれたとされる。
(語源由来辞典より抜粋)
秋山珠里は、1992 年東京生まれ、香港、ロンドン、アメリカと幼少期から大学を卒業するまで、海外で過ごしてきました。
そうした中、いつしか聖顔布が描かれた絵画に興味を持つようになったと語ります。彼女が作品のタイトルに多用する「勿体」という言葉は、聖顔布に関係しています。受難の日に聖女ベロニカがキリストの汗を拭ったために顔の形が写ったというものが聖顔布と呼ばれるものです。それは、美術の文脈に寄せて考えれば、ある種の対象をうつした絵のようなものと解すこともできるでしょう。対象を何によって掬い取るか、単純に例えばそれはキャンヴァスであったり、板や紙といったものとなるでしょう。それが対象を表象するための道具となるのですが、その後、彼女は、「勿体」という言葉と出会うこととなります。よくわからないがそこに存在するであろうその「何か」を「勿体」とよんでみた時、それは、キリストと聖顔布の対となる様に、それを表象する何かとともに対でなければ彼女の前には立ち現れなかったのかもしれません。では、それはキャンヴァスなのかといえば、それはそう単純なものではありませんでした。
「勿体」を何によって捉えれば良いのか、存在するもの、「勿体」という存在自体に近づくためにはどうすればいいのかという問いに対し、秋山は無意識にもそれを描くのではなく、触れなければいけないと考えたのではないでしょうか。視覚的でなく、存在そのものに触れ、知覚し、「勿体」という存在を「了解する」。それは絵画的というよりも塑像的なアプローチに近いのでしょうが、秋山はそこでその表象手段として「蜜蝋」を選びました。表象する支持体としての蜜蝋は、歴史的に紐解けば、人間の身体と密接に関わる物質であり、様々な用途に用いられてきました。秋山は、蜜蝋をキャンヴァスや支持体として、また同時に絵の具のようなマテリアルとしても使用します。つまり蜜蝋は、支持体でありながら、絵画面における地となり、また図となるのです。具体的に秋山の考える絵画とはどのようなものなのでしょう。
どこの国にいっても道に打ち捨てられ転がる煙草の箱。踏みつけられ、空っぽになりつつも、その強烈な宣伝と警告のラベルを纏いつつげています。それに興味を惹かれていた秋山は自分の絵画イメージと重ねあわせます。
例えば、作品『朧月夜』(2023) では、煙草の箱が蜜蝋によって鑑賞者の側から凹状に押し込まれたように彫り込まれ、またもう一つの箱は作品の裏面から押されたように蜜蝋の膜を伴って凸状にせり出しています。凹は彫刻、凸は塑像やブリコラージュのようにみえますが、秋山は、それは蜜蝋という厚い膜自体が質量保存の法則のように、削られても、付けられてもおらず、ただ変化したものなのだと主張しているようにみえます。秋山は、蜜蝋は、常に支持体であると同時に絵の具のようなマテリアルでもあるのだと意識して蜜蝋を選択したことがわかってきます。それでいて、そのタバコの箱は、我々鑑賞者に否応なく、その存在を主張してくるのです。それは例えば、背景から切り取られたかのようにみえて実はそうではないのです。それはゴッホの描いた靴のように、ポツンとその場に存在しているのですが、実はその世界から切り離されているようで、その靴の背後にある労働者の貧困、苦しみが逆に現れてくるアレゴリーとなって、その存在そのものが強く印象付けられています。その存在の真理、隠されていないもの、「隠れなさ」が表現されているのではないでしょうか。秋山は、「勿体ない」、「隠れなさ」といったように、何々ないという否定の言葉使いのもとに思考しており、それは聖顔布も然り、否定神学的な部分からのアプローチに興味があるのだと理解できます。
彼女は、対概念を持ち出すのですが、その二項には常に関係性が伴う。全き質の差で断絶してしまっているものではなく、常に二項間における関係性の中から表現の発想がなされていくのでしょう。例えば、それは立体と平面を同時に包含できる蜜蝋というメディウムであり、気体、液体、個体と変容しつつキャンバスという支持体にも絵の具というマテリアルとしても使えるものです。またタバコの箱が意味するのは、アレゴリーでもあり、また宣伝でありながら、健康被害への警告も載せなくてはならないというパロディのような二重性もともないます。
今回のまた別の作品『Noli Me Tangere』(2021) ですが、これは海老原商店(東京)という場所の床の間の内部を蜜蝋で型取った大型作品です。その大きなオブジェの蜜蝋の表面に絵の具を混ぜて着色した部分があります。それを秋山はラベル label と呼びます。ここまできて最後に何かを貼り付けるのかと思うかたもおられるかも知れません。
しかし、このラベル label もまた「勿体」の存在を把持するためのものであり、蜜蝋の変化したもの、さらに言えば先ほどのゴッホの靴のように靴そのものではなく、「勿体」の存在を想起させるものなのです。煙草の箱の宣伝 label とともにここまでくればこのラベル label という物言いも、否定的な意味からその対になるものを想起させるアレゴリックな表現と言えるでしょう。もちろん秋山のこの態度は、単なる「うつし」や「本歌取」といったものでなく、本質を直感するような手法と言えるのかもしれませんが、「勿体」を掬い取り、表現するためには、その存在を膜としての支持体で包み込み、その存在を感じつつも、label のようにこちら側からのさらなる作用が必要となります。label の部分は『朧月夜』(2023) と同様に、蜜蝋と絵の具が混ざった、蜜蝋という支持体と絵の具の両義的な二重性をもちつつ、揺らぐ「勿体」を表現しています。街に捨てられた煙草の箱は、支持体、箱のような蜜蝋と絵の具としての蜜蝋、また蜜蝋としての絵の具を包含し、様々な世界観を纏いながらそこに存在しています。それこそが秋山の考える絵画の一つのあり方なのでしょう。
浜崎亮太は 1979 年和歌山生まれ。映像や立体、平面、陶器作品まで制作を続けてきました。
『Motionless arrows are flying No,2』(2023) は、白い平面に鉄パイプが屹立する作品で、微かな音に気づくと、パイプに時計の秒針が繰り返し繰り返しあたり続けています。永遠にその場から進まない針は、我々に時間というものを強く意識させます。浜崎は、アキレスと亀などで知られるゼノンのパラドックス「飛んでいる矢は止まっている」という有名な言葉から着想を得て本作品を制作したと語リます。時間というものが静止した瞬間の連続で成り立っていて、その一瞬を取り出せば飛んでいる矢は動いていないというものです。
「もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、と彼(ゼノン)は言うのである(アリストテレス『自然学』第 6 巻第 9 章)」
という文章を引用しつつ、浜崎は、一切のものは流転変転しているという仏教の色即是空、空即是色という意味に等しいと語ります。止まって見える矢は、写真と動画、フィルム映画やいわゆるパラパラ漫画の起源であると長く映像作品をつくってきた浜崎は捉えつつも、そうした矢のように、映像における一枚一枚の写真は、一見止まっているようで、その実ある種の動き、芳醇な時間が含まれており、同時にそれらの写真を繋ぐ何もないような「空(くう)」ともとれる「間」にも、それを撮影した撮影者の表現が詰まっていると考えているのかもしれません。万物はすべて止まっているようにみえて、動き続け、変化し続ける。パイプは、横から見ればまるで男性のシンボルのような棒であり、針により叩かれる、確かに存在する場であると同時に、垂直方向から見ればそれは穴となり、それは同時に「空」を表しているともとれます。パイプが両義的な意味を持つと解すならば、この作品によって我々鑑賞者は時間を強く意識させられます。また同時に、「空」、「間」という概念の意味を、誤解を恐れず言うならば、その本質を鑑賞者に直観させてくれるのではないでしょうか。
ほぼなにもないようでいてソコに存在している揺らぎを表現しているという作品をみなさまどうぞ御高覧ください。
MORI YU GALLERY (モリユウギャラリー)
http://www.moriyu-gallery.com
京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町4-19
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