EXHIBITION | KYOTO
浜崎亮太(Ryota Hamasaki), 世良剛(Tsuyoshi Sera), 寺村利規(Toshiki Teramura)
「Penetrating sock/ets −浸透し合う穴−」
<会期> 2021年8月18日(水)- 9月17日(金)
<会場> MORI YU GALLERY
<営業時間> 13:00-18:00 月火祝休
モリユウギャラリーは 8 月 18 日 ( 水 ) – 9 月 17 日 ( 金 ) まで、 浜崎亮太、世良剛、寺村利規による三人展「Penetrating sock/ets ー浸透し合う穴ー 」を開催いたします。
「socket」とは日本語でいうコンセントを意味する。socket には「穴をつける」という意味もある。「socket」は、電気をとる 受口であり、また、拡大解釈すれば、ひとつの世界と別の世界を繋ぐものとも考えられる。今回取り上げる三人は、作風も三者三 様ではあるが、この socket という言う言葉が奇妙に合う気がしてならない。三人の作品には、二つの世界、場所のようなものが まず存在する。
「socket」は、その二つの世界を繋ぐ「穴」なのだが、それによって、それぞれの世界は、異質なものとして単に繋 がれて表現されているのではない。重要なのは、「socket」によって、質の違う世界が「互いに浸透し合う」ように繋げられてい るところなのだ。それは、まるで sock(靴下)のように、伸縮自在な足を入れる穴でありながら、時に人に打撃を与えると言う意 味も持つ。そして、穴である靴下には、さらにその指先からさらなる穴が空いていくように、どんどん違う世界と繋がっていく。 三人の作品は、どこまでも続く非連続かつ連続的な穴を創造していく。
三者三様の表現による作品群をどうぞご高覧ください。
浜崎亮太は、映像作品『Void』を展示。都市部の砂浜を掘り続ける女性を撮影したシングルチャンネル作品。 約 20 年前に制作した『幾つかの灰』という作品では同様に都市部の砂浜を男性が掘り続けるシーンを部分的に用いていたが、 禅問答に触発されたコンセプトにより新しく制作された。女性は黙々と海岸に穴を掘っていく。ゆらゆらと固定されないカメラ ワークで撮影された映像は、時の流れを、たゆたう時間を誇張するようにも見える。
浜崎は映像作品に加え、オブジェ作品も発表している。『Motionless arrows are flying』は、白い平面に鉄パイプが垂直に 屹立する作品。微かな音に気づくと、パイプに細い棒が繰り返し繰り返しあたり続けている。永遠にその場から進まない針は、我々 に時間というものを強く意識させる。浜崎は、「アキレスと亀」などで知られるゼノンのパラドックス「飛んでいる矢は止まって いる」という有名な言葉から着想を得て本作品を制作したと語る。時間というものが静止した瞬間の連続で成り立っていて、そ の一瞬を取り出せば飛んでいる矢は動いていないというものである。ただ、「もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応して いるときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動 かない、とかれ(ゼノン)は言うのである(アリストテレス『自然学』第 6 巻第 9 章)」という文章を引用しつつ、浜崎は、一切 のものは流転変転しているという仏教の色即是空、空即是色という意味に等しいと語る。止まって見える矢は、写真と動画、フィ ルム映画やいわゆるパラパラ漫画の起源であると浜崎は捉えつつも、そうした矢のように、映像における一枚一枚の写真は、一 見止まっているようで、その実ある種の動き、芳醇な時間が含まれており、同時にそれらの写真を繋ぐ何もないような「空(く う)」ともとれる「間」にも、それを撮影した撮影者の表現が詰まっていると考えているのではないだろうか。
また万物すべては動き続け、変化し続けるという概念は、『Motionless arrows are flying』の針が、空洞のパイプという物、 場を叩き続けることによってさらに強調される。パイプは、横から見ればまるで男性のシンボルのような棒であり、垂直方向か ら見れば奥深き穴であり、同時に「空」を表しているともとれよう。パイプは「空」でありつつも確かに存在する「場」として 意味づけられており、存在と非存在の「間」に在るのだと浜崎は考えるのではないだろうか。
ようやくここに至って、針によって打たれ続ける穴たるパイプと行為者(過去作の男性、新作の女性)によって掘り続けられ る穴が通底していることが明らかになってくる。多くの示唆に富んだ『Motionless arrows are flying』は、映像的な要素を多 分に含んだ作品と言えるであろう。禅僧の古事「三平開胸」や平櫛田中の「活人箭」から着想を得ているということも我々の理 解を助けてくれる。新作『Tube』( 麻袋と CT 画像の作品 ) もまた、禅の公案「麻三斤」をモチーフに制作した作品となっている。
世良剛は、キャンヴァスに網目を描く。世良は、それはメロンの表皮にある網目であると語る。
「メロンの網目って自身が成長して大きくなるにつれて表面が割れてできる傷を自己防御するかさぶたみたいなものなんです。 それを繰り返して最後には美しい姿になっていく。それってヒトのそれとも共通する点は多いにあって、でもメロンの無意識的 な生への渇望は自然であり、その明快さが、メロンの網を私に描かせるんだと思います」。
世良の描く線は、直線ではなく、常に揺れているような曲線がキャンヴァス上を走る。線と線の間にある空間は、もちろんメ ロンの表皮であり、またその下に広がるメロンの内部を表象していると世良は語るであろう。表皮を繋ぎ合わせた線と線の間に ある内部への入り口として網目の間にある表皮は、世良の絵画の穴とも言える。鑑賞者は、線に惹きつけられつつも、線の間に あるその穴にも意識が向くに違いない。過去作で世良が使用していたレースという素材も、線と同様に穴の概念が重要なもので あった。キャンヴァス表面という肉体を覆うレースの穴から見え隠れするキャンヴァスの一部たる肉は、肉体(キャンヴァス) の一部である肉でありながら、レースの線と同時に存在することによって、より異質なものとして鑑賞者に届いていた。それはレー スを纏う肉体から零れ落ちるような肉の破片が異質な感覚を見るものに与えるように、単にレイヤーと言ったものでは説明不可 能な浸透しあった線と穴を生み出していた。そう言う意味において、メロン内部の液から作り出された線状の網目と表皮とは、 異質でありながら、縺れ合いながら、浸透し合い、その存在を互いに示し合うのだ。
寺村利規は約5年振りの新作を発表。
「訪問者」。
日常において、少しだけ異物なるもの、それは、当然不可解で、その差異があまりにも微妙であるがゆえに、顕在化せず、ま た言語化できない。そうであるがゆえに、それを我々は忘却してしまう。その繰り返しが日常ではないだろうか。ただ普通はそ れでいいのだ。
ただ、時に、訪問者という異物によって、ある人は、いつの間にか、無意識に、穴のようなものに落ちてしまうこともある。非 日常性は、日常の背後に潜むものであるという解釈にそえば、不気味なものは、ふっと現実味を増してくる。その場所こそが、 日常と非日常をつなく穴である。普通では起こり得ないことが、何故か現実化してくる瞬間を寺村は描き出す。寺村の絵画が興 味深いのは、日常と非日常が異質なるものとして、別の次元にあるのではなく、相互に絡み合うものとして互いに浸透している ように描くのだ。優しくも恐ろしいその訪問者は、二つの顔を有しながら、現実と非現実の切れ目のような綱渡りのロープの上 を歩いてやってくる。そして、日常にいる人々、そして我々のそばに、訪問者は、いつの間にか存在しているのだと寺村は語る のであろう。寺村の描く人物の背景、それは穴のような憂いと不安と未来への希望を備えつつ、描かれた訪問者と共に絵画であ りつつ、時に映像のようにも見えてくる。映像と絵画の境目にあって、相互に浸透し合う不思議な作品である。
「その灰色をした、くすんだ、しかし見据える様な眼差しが、我々に向けられ、馴染みのある隠されていたものが、再び現れる様を、 体験してもらいたい。」 ー寺村利規
MORI YU GALLERY (モリユウギャラリー)
http://www.moriyu-gallery.com
京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町4-19
tel:075-950-5230