EXHIBITION | TOKYO
流政之(Masayuki Nagare)
「SAMURAI」
<会期> 2015年5月30日(土)- 6月27日(土)
<会場> NANZUKA
<営業時間> 12:00-19:00 日月祝休
この度、NANZUKAは、”SAMURAI ARTIST”として知られる伝説の彫刻家、流政之の当ギャラリーでは初となる個展を開催致します。
流政之は、太平洋戦争の敵国であったアメリカのアートシーンにおいて、おそらく最も早く成功を収めた日本人アーティストです。1964年、世界博日本館で2,500個、重さ600トンの石を持ち込んだ巨大な石のインスタレーション「ストーンクレイジー」を発表。65年、NYのスタンフリーギャラリーでの個展。66年、サンフランシスコのバンクオブアメリカ本社ビルに、コミッションワーク「太平洋の赤ん坊」を3年がかりで制作。1967年にサンフランシスコ美術館にて個展を開催。1969年に、かの有名なNYワールドトレードセンター(WTC)におけるパブリックアーティストとしては、他に類を見ない壮大で歴史的プロジェクトを次々と請け負ってきました。
流政之の歴史は、まさに伝説と言ってもよい数々の数奇な運命によって定められてきました。流は、1923年に立命館大学の創始者で貴族院議員として知られる中川小十郎の息子として長崎県に生まれました。父の基で文武両道の”侍教育”を受け、1941年に立命館大学に入学をするも、1943年に自ら志願をして海軍飛行科予備学生となり、ゼロ戦のパイロットとして終戦を迎えます。終戦後、「敗戦の日本の姿を確かめるため」に東京から下関までを放浪。芸術家としての宿命に導かれるように1955年に、第二次大戦で亡くなった日米戦没パイロットの追悼のための作品群「飛」「上昇」「洋上」「生」などからなる初の個展「飛行空間」を東京の美松画廊にて開催。その後、石川県を放浪中に壊れた地蔵の修復を手伝う過程で、割った石の地肌を生かす「割れ肌」の美しさに開眼し、1958年に養清堂画廊で同シリーズによる個展を開催。この折り、建築家イーロ・サーリネン夫妻が作品を買い求め、夫妻の友人で当時のジャパンソサイエティーの会長であったロックフェラー3世の妻ブランシェット夫人が作品を買い求めたことで、流の国際的なアーティストとしての可能性が一気に開花しました。1962年に、ブランシェット夫人、建築家マルセル・ブロイヤーらの招待でアメリカに渡り、その後の活躍は先に挙げた通りです。
流は、1975年にWTCの「雲の砦」の完成を見ると、アメリカのベトナム戦争政策に反対して、日本に帰国します。その後は、四国香川県や北海道を拠点に、「北追岬」(北海道奥尻、1981)、「神戸海援隊」(神戸メリケンパーク,1991)、「べっちゃないロック」(北淡路町震災記念公園、1999)、「だいてんまい」(高松駅、2001)、「彫刻公園ストーンクレイジーの森」(北海道大沼、2002)、「MATAKITENO」(サンポート高松、2006)など、数多くの公共作品を制作してきました。また、1979年には、日本アカデミー賞のため御神体「映画神像」の制作なども手掛けています。
流の日本での評価を辿ると、1974年、日本芸術大賞受賞、1978年、第9回中原悌二郎賞受賞、1983年、吉田五十八賞を受賞。2004年には、北海道立近代美術館で「NANMOSA 流政之展」を開催(9.11米国同時多発テロで撤去された「雲の砦」を「雲の砦Jr.」として再制作)など幾つかは、その痕跡を探すことはできます。しかし、流のキャリアがアカデミックな美術教育とは無縁であったことや、流が日本の画壇とは一切関わろうとしなかったことからか、長らく日本の純粋芸術を標榜する美術界からは無視と呼ぶに相応しい扱いを受けてきたと言っても過言ではありません。
本展では、流政之の過去の代表的な作品、ゼロ戦のプロペラや三味線のバチなどのモチーフに由来する「ナガレバチ」“防人”を語源に守護神をイメージした「サキモリ」、アイヌ語の“美しい”を意味する言葉に由来する女神像「ピリカ」、そして「雲の砦」(ミニチェア)などを展示し、孤高の芸術家・流政之の仕事を改めてご紹介させて頂きます。
5月30日(土)18:00より、アーティストを囲んでのオープニングレセプションを行います。 本展を皆様にご高覧頂ければ幸いです。
NANZUKA(ナンズカ)
https://nanzuka.com/ja
東京都渋谷区渋谷2丁目17-3 渋谷アイビスビル B2階
tel:03-3400-0075